《捕食と寄生》

 

「アイツに見つかったら食べられちゃう」

 

そんな危険を感じさせる、捕食や寄生をする側の生き物のことを、そうされる側の生き物の天敵であると人は言う。

 

前回記事にてこの様に書いた。

 

パクッと来て「モグモグゴクン、おわり」となる、食べる

 

寄生によるエネルギー摂取は食べるより、直ぐには死なせず生かしておいてチューチュー吸う感じ。

 

スピード感のない天敵関係もあるのかと、更なる面白さに唸った。

 

直接食べ合う訳ではないが、天敵と言う表現は人間社会にも持ち越されて使われる。

 

相性の悪い極端に苦手な相手に対して、天敵と言ったりする。

 

まるで不倶戴天を略して天敵みたいな、同じ空の下に存在することも許容出来ない強い嫌悪や憎悪を感じるもの。

 

こっそり背後から齧りついて背負われながらエネルギーをチューチュー吸い、

 

「へへ…アナタあってのワタシだから…」

 

と、ぶら下がる感じはない。

 

寄生するには同じ天の下に居ないとならないのだ。

 

生物全般の間での天敵、人間社会での天敵

 

意味合いに差が生まれたのは、どの辺りでの話なのだろうか。それにしても、

 

「何が食べられ吸われるんだろうか?」

 

 

人以外で捕食や寄生が起きる場合の様に、人間同士でも何かしらの食べ吸われがあるのだとすれば一体何がそうなるのだろうか。

 

生物にとっては捕食も寄生も天敵になるのは別種。

 

ところが人間の天敵は何か別の種ではなく、同じ人間。

 

自然界には既に別種の敵なしと言うことだろうか。

 

そうなっても同種間で天敵が生まれるので、結局安心は出来ない。

 

 

安心など、エゴは求める振りしかしないので、これはこれでお約束な動きである。

 

種族としては同じだから、居心地の良い状態をぶち壊しにされる気がする苦手な相手を天敵と呼ぶことはあっても、人間による人間の寄生天敵と見なされないのかも知れないと、気づいた

 

人間同士の付き合いには、情に絆されたり惚れた腫れたの欲目も影響を及ぼしたり、脅したり言いくるめたり言動を使った操作手段があったりして、関係そのものを真っ直ぐ飾らず誤魔化さずに観察することが難しくなっている様に感じる。

 

「たまに暴力を振るうけど、とっても優しい時もあるの。信じて尽くしていたら、きっと彼は変わってくれる」

 

そんな風に感じ方や認識を編集すると、ヒモによる寄生状態「愛に降りかかる試練」と言った、花柄のラッピングで飾られることになる。

 

誰の味方でも敵でもない、素のままの意識観察していると、どんなに理由付けして飾ったり覆ったりしようとも中身は丸見えとなる。

 

誰にもして欲しいことが別にないので、そこに向かって状況を運ぼうとする必要がない。

 

誰にも見て欲しい姿が別にないので、その様に見せようと自らを作り込む必要がない。

 

こうなると、どんなものからも寄生されなくなる

 

寄りかかろうとする人があったとして、スカッとすり抜けてしまう。

 

 

相手にしてみれば肩透かしを食った状態となり、戸惑ったり皮肉や文句を言ったり細かな反応は違っても、皆それぞれ求めた通りに受け止めたりぶつかったりしてくれる肩を探しに移動して行く。

 

昨今は、そんな肩への辻タックル自体とんとご無沙汰である。

 

捕食したりされたりはないし、寄生したりされたりもない

 

それでも、変わらない

 

全く当たり前のことだが、利害関係の有無は愛の有無に関係ない

 

寄生する人される人、捕食する人される人、そのどちらもしない人。そしてされもしない人。

 

範囲指定せずそれら全て丸のまま素のまま天意による愛観て「そうしたかったんだね」と頷いている。

 

したいことが、出来ている。

(2023/5/8)