《折って折られて》
前の記事で、どうせならに近い意味を持つものとして出て来た、折角。
何の角がどう折れて生まれたのか知りたくなって調べたら、鹿の角だった。
五鹿に住む充宗と言う人を鹿と言い表したものらしい。
それまで誰も言い負かすことが出来なかった充宗を、朱雲と言う人物が易を論じて言い負かした。
そこで、人々が「よくぞ鹿の角を折った」と洒落て評したとする話から生まれているのだそうだ。
角と表現されたのは、充宗と言う人の自信だろうか、そこから来る高慢さだろうか。
ともあれ、「鼻をへし折る」の鼻的な意味で使われている角である様だ。
朱雲による充宗の言い負かしはとても大変なものだったのだろうか。
この故事から、「力を尽すこと」や「そのような困難」を表す名詞、「力を尽して」や「つとめて」と言う副詞として折角が使われることに。
そこから更に「わざわざ」の意味でも用いられる様になったそうだ。
何で、わざわざ?
尽力や困難から、「つとめて」を通してわざわざまで繋がったのだろうか。
元は虚空から生じた全体一つをわざわざ分けて、
その片方にわざわざ牡鹿の角の様に派手な自信や高慢さを持たせ、
わざわざそれを持っていない方の新参や後続と対決させ、
そして作った角をわざわざへし折る。
そして喜ぶ。
だからわざわざなのだと言うのなら拍手物である。
後から足されたのか同時発生的なものなのかは不明だが、「わざわざ」を意味する折角が生まれた背景として、ちょっと違うエピソードも発見。
人々に慕われる人気者であった郭泰と言う人物。
彼が被っていた頭巾の角が雨に濡れて折れ曲がっていた。
その姿を見た周囲の人々が、お揃いにしようぜとわざわざ頭巾の角を曲げて真似て、それが流行したと言う話。
だからか知らないが、こちらの折角エピソードは「わざわざ」の意味だけを生んでいると言う。
尽力して困難の果てに角を折った帽子を被ると言う状況には中々お目にかかれなさそうなので、これはこれで納得である。
2つの小話から浮かび上がって来たのは、人間の微笑ましい幼さだった。
自信家な強者を打ち負かすことで発生した未知にやんやと喜ぶとか。
憧れの人がしていたちょっと目立つことに未知を感じてそれを真似てみようとするとか。
天や地や特定の人物に物理次元の進化を任せておいて、エゴや感情を使って呑気に遊べていた時代。
角が立ったり角突き合わせたりもある、折って折られての遊びは余程楽しかったのだろう。
そうした古いノリに応援がなくなった現在でも、止め難く未練を残して慣れ親しんだ動きを続けている人は世に多く居る。
力任せにへし折っても、
折り目正しくしても、
どれだけ折り重ねようとも、
折るだけでは溶けない。
そのことを認めて独り立つ時、どの角に寄りかかることも必要なくなる。
山折り谷折り全て空から。
(2023/5/18)