われと》

 

「我と我がとは、自分自身のことを意味すると言う。

 

分けて割り当ててみると、

 

 

自分

 

我が自身

 

となる。

 

ところが我がの意味として第一に「自分の体」を挙げ、その後に続けて「自分の身の上」、更には「自分」としている辞書もある。

 

分けて書いておいて、欲しい時だけふわ~っと抱き込んで同化する。

 

 

エゴを持った状態に特有の、奇妙なやり方と言える。

 

覚めぬままの自・分割意識と言う“自分さん”は自己都合、つまり御神体を一心同体にしたり切り離して分けたりする。

 

一身上の都合と言うのは、内容を紐解いてみれば自分さん都合である。

 

自身の問題と言う時も、それは御神体でなく自分さん問題だと見なしていることを指す。

 

御神に何の都合もなくとも、何も問題もなくとも、連帯責任みたいなかたちで「我がとして抱き込んでいる。

 

 

その一方で我が身を恥じるや、我が身を顧みずとか我が身を投げ打ってと言う表現はあっても、我を恥じる我を顧みず我を投げ打っての言い方はない。

 

これは何故だろうか?

 

意識都合によって自己犠牲めいた行いが必要な時は、「この身を差し出します」としつつ御神体を差し出す。

 

恥じ入る様な場面でも「この身を恥じます」とちょっと分けて、衝立代わりにして意識の沽券を守ったりする。

 

それで居て、我を恥じる気、顧みる気、ましてや投げ打つ気はさらさらないと言うなら、それは随分と虫のいい使い方ではないだろうか。

 

 

こうした姿勢でする体験もまだ新鮮味のあった時代は、人型生命体必要なことではあった。

 

だがあくまで成長過程の一つであり、延々繰り返し続けるものではない。

 

生まれて時を重ねながら、

 

「俺は絶対に立たん!」

とハイハイに徹する人が奇妙なのと同じである。

 

繰り返し続けるものではないからこそ、慣れ親しんだ不覚的お約束を折り込んで紡がれて来た人類史は尻すぼみに終わって行こうとしているのだ。

 

我と我がを分ける虫のいい遊びを手離す時、我の殻は外れてその中にある、他と比べて特別偉い訳ではない只の自分出て来る

 

とは、自分に対して付ける「様」みたいなものでもあるのかも知れないと、ふと気づいた

 

 

俺と俺様では随分雰囲気が違う。

 

分割意識が我も我もとやっている俺様ごっこを卒業して、

 

優位性に寄り掛からずシンプルに意識として自立する時。

 

そこで初めて御神体との結婚成るのだ。

 

さず、われる。

(2022/9/5)