消化と昇華が必要なものが溜まっているとお知らせが来たので、来週は記事の更新をお休みしてみます。
皆様それぞれに、これまでの記事に書かせて頂きましたことの中で未消化(未昇華)なものを見つけ、そこに注力なさる期間としてご活用下さい。宮司は少々まとまった注力を必要とする課題に取り組みます。
次回記事は8月30日(月)に更新致します。
では本日記事へ。
《愛か恐れか》
月曜記事に書いた届け物、多用な方々の用事を増やすこともないと、建物の入り口にてお届けを済ませて、1分もかからず失礼した。
満足していたのですっかり忘れていたが、お仕事の終わられたタイミングだろうか電話があり、丁寧な御礼の言葉を賜った。
その折に、只今世間で騒がれているウイルスの話になった。
「今は誰がかかってもおかしくないから…」と、大変気をつけていた方が陽性になった例を挙げ、こう仰った。
「「何でわたしが」って泣いちゃった人もいるんですよ」
「えぇ…」
泣くと言う反応が出たのはおそらく、愛からではなく恐れから気をつけていた為だろう。
そう気がついたが、申し上げてお分かり頂ける感じでもなかったので、「えぇ…」位しか返す言葉が出て来なかった。
終話後はこの愛か恐れかについて意識を向けた。
これを伺う必要があって、わざわざご連絡を頂戴する流れになったのかも知れない。
そう気がついて納得し、感謝した。
恐れからの注意は、当人にとって「頑張り」となる。
「頑張って、努力して、ちゃんと気をつけていたのに、この結果は何だ」
そうなれば、泣きたい気持ちも起こるのだろう。
そこには「裏切られた思い」がある。
この時、頑張って来た人は一体何に裏切られるのか。
神にだろうか。
それとも運命にだろうか。
自分の力ではどうにもならない大いなるものが存在することをイメージするのは間違いではない。
だが、人はそこに何でか期待をかける。
自分を守ってくれる母なる自然。
自分を護ってくれる大いなる力。
つまりそれを、「自分ではない」と分けて線を引く。
裏切りをしたものが何かは知らないが、裏切られたものとはこの期待だろう。
「期待」と言うものに「けなげ」を感じて、「かわいいじゃん」と気に入っている不覚の人は結構居る。
それも勿論自由だが、果たして大人のすることだろうか。
真に健やかな気を放つ「健気」な存在は、何かを期待して動いたりはしない。
期待とは、思い設けることである。
期待を込める原因となった恐れからではなく、愛から他を自と変わらぬものとして慈しむ意味で意を注ぐなら、どれ程きめ細かにしたとしてもそこに「頑張り」はない。
その注意力は集中力を磨き、二つの歓びを伴う。
磨かれる歓び。
そして愛を放つ歓びである。
「愛か“よかれ”かが分かりません」
もしかしたらそんな方も居られるかも知れない。
“よかれ”には、良し悪し、善悪と言った評価や判断がある。
「あれは悪い状態だから善行によって、良い状態にしてあげよう」とか、改良改善を目的として行動し、裏に評価をつける心があればそれは“よかれ”だ。
“よかれ”は得意気となり、愛は歓びとなる。
そして“よかれ”も期待と同じく、恐れのある状態を基にして出て来る。
愛か恐れか。
全母性がどちらに宿るかは、明らかだ。
愛は愛。誰にも味方しない。
(2021/8/19)