《役割分担》
世に起きる様々な出来事は中心から観ていると全て、変容の時代の流れを加速させる方に動いている。
「不自然なこともですか?」
その通り。
ちなみに我を虚空へ還して中立に観た時の自然と、意識の中に「こうあるべき」「こうあって欲しい」を残したまま感じ取る自然とは、当たり前だが同じではない。
「これっておかしいよね」となる時、不自然が別の不自然に対して腹を立てていたりする。
傾いた都合を抱えない意識で物理次元を観察している内に、世の中で有ってはならないと見なす出来事も、全体一つの流れの中で起きていると分かる様になって来た。
不覚社会では、この所出回っているウイルスは恐るるに足らずと、日常に「以前のノリ」を増やそうとする人々が出て来た。
まぁこれで辛いご時世の出口かなの希望的観測と、
いきなりホントにおっかない新種が出て来るかも知れないし今の内に、と言う焦燥感。
「こんだけ我慢したんだもう勘弁してくれよ」の、痺れを切らした逆ギレ。
そんな期待や不安や暴発に揺れつつの、抜き足差し足忍び足で人出も増えて、そろそろ大人数で集まることもしたいよねの雰囲気になり始めた矢先。
大勢が集まる場所で、人が突然襲われる危機が発生と言うニュースが舞い込んだ。
これには、「変容の流れは本当に明確だし人知を超えている」と唸った。
不覚社会でエゴを使ってやりたい放題遊ぶことを可能にして来た安全装置が外れていることは、既に申し上げている。
当宮にお越しの皆様におかれましては、今更「急な危険が生じるニュース」に驚かれたりはなさらないだろう。
只、「何で?」となった方はおられたかも知れない。
「何で罪もない人が」
「何でこのタイミングで」
罪もない、に関しては「危機は罰なのですか?」と申し上げる。
タイミングに関しては、多数の人々に大きな緊張が生じている時と場所が、この度は必要だったのではないだろうか。
合否を左右する特別な日と言う元々の緊張に、予測し得ない危機の発生と言う更なる緊張の圧をかけることで、起こることに真っ直ぐ向き合えるかどうかを観察する流れが生じている。
そして「人と人との距離」を生み、出来るだけばらしてそれぞれ中立に独り立つ機会を生もうと言う流れも生じている。
集団の中におかしな人が混ざっているかも知れないと言う危機感は、大勢で集まろうとなるあらゆる場面に水を差すのだ。
その流れには善悪はない、優劣もない。恩も仇もない。
変容と言う逆行することのない流れと、それに応じて生じる役割があるだけだ。
流れの中、危機が生じると言う場面でも様々な役割が生まれた。
襲う役の人、襲われる役の人、助ける人、捕まえる人、襲われるのではないかと恐怖する人、心配する人、防ごうとする人、憤る人、嘆く人、etc。
この役割は、別に天から与えられたものでも、押し付けられたものでもない。
人災と見なす出来事だけなら、エゴを使って意識は傾向と対策を練ったり感想を述べたりと、あれこれして気を紛らわそうとする。
ところが、このタイミングで「誰を責めることも出来ない、防ぎようもない、人間にはどうすることも出来ない危機」も、海の向こうの遥か深い所で起きた。
人が人災と呼ぶ出来事と、天災と呼ぶ出来事をセットにして、
両側から不覚分割意識を挟んでギュッと圧をかける。
エゴが割り込む隙のない着実な仕事が、坦々と成されている。
人間は只巡って来る役割を受け容れるだけなのかと問われれば、そうである。
不覚者による、流れに逆らったり押し留めようとしたりと言った抵抗がなければ、派手な悲劇だとか合戦の場面は必要ないし生まれもしないのだが。
己で拗らせたものに「ギャー、何だこれ!」となっているだけなのだ。
巡って来る役割が決まるにあたって、“或ること”が大きく関わって来る。
木曜記事ではそれは何であるかを、書かせて頂くことにする。
分担するも、皆いのち。
(2022/1/17)