(こう)()る?》

 

先日、射幸心(しゃこうしん)射幸性(しゃこうせい)について書かれた資料に目を通していた時に、シンプルな問いが浮かんだ。

 

(こう)の中心?」

 

「射る」には、弓矢と、的と、御神体と、分割意識中心に向かって放つ意志が要る。

 

不覚の人類共通して求める的はないので、

 

「これが幸せど真ん中」

 

 

となる、中心もない。

 

幸せと感じるモノコトは各々で違うからである。

 

或る者にとって喉から手が出る程欲しいものでも、別の者にとっては何ら興味のないものだったりする。

 

「でもこれは間違いなくみんな欲しいよね」

 

「何だかんだ言ってこれが幸せに決まってる」

 

 

と、心の中に人類共通の射幸用(まと)を設定している人は、意識が頑なで柔軟性に乏しくなっている

 

中心が定まることのない幸を射ようとするだけでなく、射幸心には別の奇妙さもある。

 

どう言った幸を射るにせよ、「何かしら前もって思い」「狙いめがけて」行うものであることは明らか。

 

だが「射幸心」の意味を調べると、「幸運や偶然により、苦労なく、思いがけない利益を得ることを期待する心理」と書いてあったりする。

 

それを見つけて、

 

「思うことなしに、どう期待するって言うんだ?」

 

 

と、なった。

 

具体的に結果を指定しなくとも、「なんかいいこと」と期待した時点で既に思い設けている。

 

思いがけない運を思い、狙って的をる。

 

支離滅裂動きである。

 

「そう言うとこ、雑じゃない?」

 

と、資料のあちこちに書かれている「射幸」の字を眺めた。

 

射幸心は、元々は射倖心と書いたそうだ。

 

「倖」偶然に得るしあわせを意味する。

 

そこから、「偶然の利益や幸せを頼む心。まぐれあたりを狙う気持射幸心と言う」と、書いてある説明を発見。

 

思いがけない運を思い、まぐれを狙って的をる。

 

増々、支離滅裂に。

 

そう言えば「まぐれ」とは、一体何だろう。

 

これについても調べてみると「紛れ」と書き、「偶然の好運にめぐまれること」だと言う。

 

気紛れと同じ、紛れるの「紛」

 

気紛れは気を紛らわす為に起こるものなのか。

 

まぐれによって紛れるものとは、何だろうか。

 

 

謎が謎を呼ぶ感じだが、観察していて改めて気がついたことがある。

 

でありでありと言う無限なる循環のあることを、覚めていない状態の意識理解実感をするのは難しい

 

だが、「生きながら虚空としての感覚記憶を甦らせる」と言う流れは、見えずとも物理次元上で常に起きている

 

理解実感難しく人間には進めることも止めることも不可能な、“何かが起きている”と言う変な感じだけ薄っすらと分かったりする。

 

その変な感じ不安定さを招き、安定の確定を求めて幸を射る動きが起きる。

 

  

幸運のイメージは不覚の意識にとって精神安定剤の働きをする。

 

そして射幸性を求める心を止まらなくしているのは、幸そのものではない。

 

「次こそは!」とか、「再びあの場面を!」と思い設けている時の興奮なのだ。

 

物理次元は、手出しをしていじくり回さなくとも自然と(さき)わうものである。

 

だが、非凡な幸を狙いたいそれもまぐれで当てたいと言う、やたら入り組んだオーダーを放ち続ける分割意識にとっては、全体に起こる自然な幸わい退屈なものなのだろう。

 

 

そうして先の展開への期待に意識を向けていて、味わえる“今”ってあるだろうか。

 

的を射ると言う表現があるが、それはまさにドンピシャを意味し、幸か不幸かは関係ない

 

幸を狙って放つ出鱈目な矢が止む時、真に射る必要のある的が内に観えて来る。

 

それについて本年の締めくくりとなる木曜記事にて、書かせて頂くこととする。

 

(しゃ)()んで、射止(いと)めるもの。

(2021/12/27)