《崩れる聖域》
不覚社会の存続を支えて来た、慣れ親しんだ予定調和。
それを保つ安全装置が外れて久しい。
これまで漏れずにいたものが染み出し、勢いを増して溢れ出し、世間を驚かせたりしている。
第一人者だから。
大会社だから。
名家だから。
トップだから。
彼らの進めること求めることにその他大勢や無名の下々は黙って従い、不自然なことでも見て見ぬ振りをする。
その潮目が変わったのは、世の人々が声なき声に耳を傾ける優しさと、おかしなことはおかしいと言う勇気を持つ様になったから、ではない。
端的に言えばYoutubeやTwitterなどのソーシャルメディアの利用が広まったからだ。
この流れによって、無名の人が発信したものでも興味を持たれれば拡散する可能性が生まれた。
有名無名様々な人々の「見たい」「見られたい」欲は、増幅することで中には「見なければならない」「見られなければならない」欲にまで変化することも。
沢山の人が更に沢山の人から興味を持たれたいと奮闘努力する世の中。
情報の激しい波にさらされる社会に暮らす人々の意識内で、次第に「注目」が「恥」を上回る重要さを持つ様になった。
注目をされれば、批判や非難をする人が現れても、その一方で擁護や応援をしてくれる人が現れることもある。
明らかな犯罪行為であったりすると擁護や応援は少なくなるが、何であれ見られないよりはマシだと意図的に非難や批判を狙って衆目を集めようとする人まで現れる様に。
多くの人が眉を顰めても、とにかく注目は集められる。
見られたいあまりに変てこな動きをする人々の加勢もあって、この所の不覚社会では黙ることで保身に努めるより、声を上げて注目を集める方が良い、と言った雰囲気が出来上がっていたのだ。
これにより、言うことを聞けば悪い様にはしないと周囲をねじ伏せ黙らせていた支配者の人々にとっては“飼い犬に手を嚙まれる”と言う事態が、あっちでもこっちでも起きることになった。
利害関係のあるコミュニティーを抜け出してから告発することが多いので、かつて飼っていた犬に手を嚙まれると言う感じだろうか。
そもそも目下や部下、格下と見なす相手を犬と表現すること自体、意識の中立感覚が著しく狂っているし、動物の犬だってそうした表現に使われていると彼らに分かる様に説明出来たら、「失礼しちゃう!」とならないだろうか。
現時点では確認する方法がないので犬の気持ちはさておき、何だってこの話を記事に書かせて頂いたかと言えば、
これまで不可侵な聖域とされて来たものの維持がどんどん難しくなって来ていること
と、改めてお知らせする必要があったから。
そして、聖域側が敵だと危険視したものだけ倒したり押さえつけたりしても、望まない事態の発生は防げていないこともお知らせしておく。
全く気にも留めていなかった外野で発生した波によって、難攻不落に見えた聖なる牙城も気がつけば浸水状態になっていたりする。
これは特殊な職業や立場にあるごく一部の人についての話だから、一般人には関係がないと思い込むのも自由だが例えば、
のどかで穏やかな田舎暮らし
これだって人の意識の中で美しいイメージで編集された“聖域”である。
こちらも実際に体験した人々からの報告によって「そうとは限らない」ことが明らかになり、その聖性が順調に崩壊している模様。
のどかで穏やかとは限らないなんて、そんなこととっくに知られていますよ何を今更と、なる人も居るかも知れない。
知っている人は知っているだけの状態と、広く知られるだけでなく何か出来事が起きた時の世間の見方や反応が違って来ている状態は全く違う。
崩壊は、埋め立てて無かったことに出来たり、盛り返して取り戻せる様なものではない。
言った言わないで有耶無耶に出来ない、情報記録が残り拡散される現代。
大勢に崇められる生き仏様が信徒の児童に自分の舌を吸えと求めている映像が、この世から消える日はおそらくもう来ないだろう。
何でも言葉や映像を使って明らかに出来る、更にはそれを発信者の手腕と都合で編集することも出来る時代。
不安も手伝って、何が正しくて何が間違っているのかワーワー騒いだり、騒ぎそのものを楽しんだりすることもしばらく続くだろうが、中立に観察、それが出来なかったとして少なくとも冷静に観察していると
「どうあってもこれは編集では作れないし、作る意味もない」
そうしたものと、意図を含んだものの違いが分かる様になって来る。
自他や内外を問わず崩れ行く聖域を発見したら、改めてこの世に特別なものは何も無いのだなと、静かに理解を深めて本道を行く力となさって頂きたい。
崩れては困る意識内の聖域
そうしたものがまだ、お有りだろうか?
有ったら観察してみよう。
(2023/5/22)