《嘆きと守り》
人が何かを責め立てる時、やり方にはどの様なものがあるか。
それを観察していた時、その一つとして嘆き責めと言うスタイルがあることに気がつき更に起こる背景に、様々な事情を発見した。
本日はまずその中の一つをご紹介。
事情その1・何かを守りながら責める必要がある
死なばもろともと捨て身で責め立てる時には、嘆く振りをして責めると言った持って回った様なやり方はしない。
一体、何を守るのか。
まず挙げられるのが、
立場
家庭、職場、社交の場。世の中には様々な場がある。
その中で弱い立場にある者が、呑気に正面から強い者を責めると簡単に返り討ちに遭うし、何なら倍返し。
報復を招かずに、上手く立ち回らなくてはならないと工夫して編み出したのが、嘆きで包んで責めると言う手法である。
守るものは他にもある。
次に挙げられるのが
体面
不覚の人は、危険から身の安全を守るのとは別に、精神的な優位を保つ為に面子を守ろうともする。
殊に嘆きは、悲嘆の様に悲しみに結び付けたり出来る。
自分以外の為に悲しめる人、悲しみのあまり嘆く人は、不覚社会で「善い人」「正しい人」「優しい人」とされる。
嘆きは「善い人」「正しい人」「優しい人」としての体面を保つ上に、より艶を出すコーティングまでかけられる、“より良い自分像”のお手入れに使える。
“より良い自分像”を周囲の目が眩む程ピッカピカに加工しても、“それ”と“それ以外”に大きな差が生まれるだけである。
当たり前に、全体一つからは離れて行く。
そして、どれだけ嘆きで包んで間接的にしても、中に入っている具が「責」であることに変わりはない。
「責」については昨年《責と適》と言う記事にて書かせて頂いており、それ以上特に申し上げることはない。
不覚社会を眺めていると、人々は未だにその人自身が何も貸していない所に向かって、借財を取り立てる様に責めることをしている。
だが自ら責めながら、又は責める人を発見して
「責とは何だろうか?」
と調べてみる人は中々居ないし、調べた後に
「責めたい気持ちがあるが相手に何か貸したのか?」
や、そうであれば
「一体何を貸したんだっけ?」
と観察する人は更に居ない。
居ないと言うことはつまり、新鮮な体験としてそれをしてみる機会であると言える。
それに気がついて、今月のふろくをこしらえる運びとなった。
実践行動の意味と重要さを知る方々におかれましては、それぞれの内に「責」への欲求が残っているかどうかの観察も含めて、お役立て下されば幸甚である。
責めることも責めずに。
(2022/2/28)
《2月のふろく 責貸借メモ》
鞭の所に、責めたいもの、かつて責めていたものを一つ書き、貨幣の所に「一体何を貸しにしていたのか」、自身が貸しを作っていなくとも「何を貸しと呼べるのか」をお書き下さい。
それは社会に対する貸しであったり、神に対する貸しであったりするかも知れません。
自他を責めず中立に観察して頂き、「一体何をどう返せと求めている(いた)のか」を提灯に書き込み、貸借がない(なかった)と分かればそのことを、なしにするにあたりご自身に出来ることがあれば、その内容をリボンの付いた所に書き込み、実行なさってみて下さい。