《咀嚼と観察》
人々の間で、分割意識と御神体の関係についての認識はどの様に変化して行くのか。
その動きを感じられるかも知れないと、たまに書店に行った時に、心身の健康についての本が集まるコーナーも覗いてみることがある。
2022でも大体伝わって来るものはこれまでと変わらない。
「これをこうすれば健康になりますよ」と「これをこうやめれば健康になりますよ」のどちらかで指し示すのが、
不健康と言う望ましくない状態を健康と言う望ましい状態に導く
ものであることは同じ。
そもそも健康って何だろうと、不思議にはならないのだろうか。
序文や後書きに「健康って何だろう」とちょっと触れてみる本を見たことはある。
それまで扱った具体的内容に、詩的な感じや哲学的な感じを添えてまとめることで、何となくオチが付く効果でもあるのだろうか。
しかし、健康とは何なのかを1冊かけて奥深くまで探ってみる本には出会えていない。
食べる、いや食べないと、どちらか一方に寄せる方法は、必ずと言っていい程「違う、そうじゃない」と反対派が立ち上がり、シーソー遊びで盛り上がる。
最初からシーソー目的ならそれもそれで勿論結構だろうが、もし本当に世の中で健康と呼ばれる状態になりたいなら、二派あるうちのどちらかに与するのではなく、まずは異論のない「分かり切ったこと」に注力するのが確かな道なんじゃないだろうか。
「どのシーソーの、どっち側に乗るのがいいですかね?」
なんてことを気にしたり聞いて来たりする前に。
只、分かり切ったことには人気がないのも知っている。
おそらく、地味で退屈だからだろう。
健康法で言うなら咀嚼が、丁度これにぴったり。
古今東西見渡してみても、丸飲み健康法にはお目にかかったことがない。
良く磨けと言われることの多い歯にも、いや磨くなと言う少数派の健康法があるそうだ。
だが、
「食べ物は噛まずに一気に飲み下して行けば、みるみる元気!」
と言うのは聞いたことがない。
嚙み合わせが歪んでいると咀嚼は却って健康を害すると言う話もあるが、これも咀嚼ではなく「噛み合わない状態」に不健康の原因がある。
だから噛むの止めようねではなく、十分に噛める土台を用意しましょうと、嚙み合わせから向き合って行くことが必要になる。
よく噛んで食べると、話を十分に噛み砕いて理解する力もつく。
脳の血流アップやリラックスが起こるそうで、集中力が増して気持ちも落ち着けば、話を噛み砕く余裕も生まれる。
とは言え、力がつくだけで本人にその意志がなければ話の噛み砕きは起こらない。
互いに「噛み合わないなぁ」となる話をひたすらもぐもぐやっても、自分の好みや価値観に合わせた受け取り方を強引にするなら顎を痛めるだけである。
咀嚼に人気がないのは、観察に人気がないのに少し似ている。
やったからと言って偉いと褒めても貰えないし、
どれだけ効果が出ているか分かりづらいし、
凄いとか素敵とか言われる訳でもない。
それでも咀嚼や観察を抜きにしては、腑に落ちることも消化&昇華も起こらない。
そこからしか分からないことがあり、そしてどちらも替えが効かないことであるのは確かだ。
その身一つで出来ること。
(2022/11/28)
11月のふろくはお休みし、12月に2つご用意を致します。