創造果実

 

「このよで いちばん すきなのは

 

 おりょうりすること たべること」

 

 

『ぐりとぐら』に書かれていたこの部分をしみじみ味わい直していたある日のこと。

 

以前に読んだ時は通過して「ぐり ぐら ぐり ぐら ……、ん?」となった訳だが、この日は「おりょうりすること たべること」「成る程なぁ」と感心した。

 

と言うのも、

 

おりょうりすること創造

 

たべること消化昇華祝福

 

と、それぞれ象徴になっていると気づいていたものが、より深くはっきりと腑に落ちたからである。

 

それは「彼らが何者なのか」についての気づき連動して起きたのだが、これについては来週の記事に譲ることにする。

 

ぐりとぐらは、

 

「美味しいものは食べたいけど、手間かけて作るのは面倒っちいなぁ」

 

とは言わない。

 

彼らにとっては「おりょうりすること」それ自体が楽しい歓びのあるものだからだ。

 

 

ぐりとぐらは、

 

「美味しいもの食べたいけど、出かけて行って買って来るのも面倒くさいなぁ」

 

とも言わない。

 

彼らにとっては出かけることもそれ自体が楽しい歓びのあるものだからだ。

 

「作るのも買うのも面倒だし時間ない。ようし注文だ、えいポチッ」

 

にもならないだろう。

 

お取り寄せをすること自体は良くも悪くもない

 

 

そうすることが楽しくて届けられた物や届けた人に感謝するなら弥栄であるし、面倒や手間がでそこから逃げる発想でするなら歪みとなる。只それだけだ。

 

生きることはそれ自体、創造である。

 

その創造によって成される果実、つまり成果を食べることだけを好んで、より多くの果実を集めようと手繰り寄せを行う人、行おうとする人は多い。

 

皮肉なことにそれは、肝心の果実味わい薄める

 

味の薄い実は食べても食べても満ち足りず「もっと もっと」となる。

 

「もっと もっと」の不満から、大きな籠になるべく沢山の果実を集めて見せびらかすことで満足感を得ようとしたりする。

 

 

味わいは、量や値打ちで決まらない。

 

「おりょうりすること」創造「たべること」消化昇華祝福の象徴と書いたが、これは深いメッセージを含んだこの絵本作品においてのこと。

 

物理次元上での料理することや食べることはそれぞれが創造であり、同時に果実であり、消化され昇華される祝福である。

 

料理をする体験そのものも成果であるが、人間はそれにあまり気がつかない

 

結果として出来た目の前の料理のみ成果と見る。

 

まして後片付けの体験成果とは見ない

 

 

「おりょうりすることも、たべることも好き」でもお皿洗いは大嫌い、なんてのも珍しい話ではない

 

食洗機に任せるのも感謝歓びでするなら弥栄だが、

 

「より楽な方」

「好きなことだけ」

 

を求めて行い、そのが付いた結果、行動の種類に沿って評価を下す様になると、生きること味わい薄れて来る

 

 

生きることはそれ自体、創造であり、

 

生きている状態はそれ自体、果実である。

 

物理次元溢れる様々な現れは、虚空からの天意実った愛の果実なのだ。

 

虚空無数の果実世に生んでいるが、誰かに見せびらかす為それをしていない

 

 

なきなどありはしない。

 

真意、真心、真実。

 

動にどれだけのあるか、

 

それが果のを決める。

 

真で深める愛の味。

 

(2022/1/31)

ふろくを添えてお伝えする内容が、記事が長くなり見事にはみ出ましたので、ふろくごと来週に持ち越します。