《出産と新生》
うみの苦しみにも一理ある、と先週記事にて申し上げた。
生みより産みの方が先で、人間の出産の大変さは「命懸け」とも表現される程である為に生まれた言葉。
命を懸けて命を産む。
医療設備やそれを支える社会環境が整備されていない地域では、出産による身体的負担で亡くなる女性の割合はあまり減っていない様だ。
生きるか死ぬかでなくとも苦しいことには変わりなく、これは生まれて来る子の頭周りのサイズと、通る所の幅が全く合わない為に起こる。
鼻から西瓜を出すと表現される、ちょっと意味の分からない無理難題を解決する為に、産む人とそれを手助けする人々の力が求められる。
脳と頭蓋骨の発達に従い、通る時の抵抗も増した為に、ここまでの大事となったらしい。
進化の歴史上で、どの辺りまで「つるっと」行けて、どの辺から「あれ、ちょっと引っ掛かる」になり、「わぁ~勘弁してくれ、でもやるしかないのか」に変わったのだろうか。
原人の頃にはもう引っ掛かってたかな、などと頭のサイズから想像しては見たが、その辺りが確認出来る資料には未だ行き当っていない。
この「無理じゃない?でもやるしか」な出産にはそのまま、誰でもない者へと新生を遂げることに対して意識が感じている難しさが表れている。
進化変容による新生の方は専門の施設に入院出来る訳でもなく、医師や看護師に手厚く支えて貰える訳でもない。
生まれた新しい自分が、「目に見える」訳でもない。
そもそも、慣れ親しんだお気に入りの自分像を手離す覚悟が決まらなければ、誰でもない者として生まれることはないのだ。
進化変容による新生など端から無かったことにしたくなっても、意識の中で「やるしか」の切迫感が消えない時。
生むぞと意気込んでも、未練に引っかかって揺らぐだけに留まり、その反復が続く時。
そこには生みの苦しみがある。
一理あるとはこのことである。
脳の発達によって、人類は他の種に見られない進化と発展を遂げて来たが、同時に他の種が表現し得ない複雑な、エゴを使ったややこしい動きも沢山して来た。
もう何が何だか。
それこそがわざわざ不覚状態になって虚空が体験したかったことであり、失敗や誤りが増えてこうなったのではない。
只、ずっと続けるものでもない。
虚空が人の姿を持って分化し不覚時代にしたかった体験は、既に出揃っているのだ。
協力し合ってどんどん膨らんで来た脳とエゴ、だが近年は脳が小さくなりつつあると言う話も聞く。
脳が最も歓ぶ刺激は新しい体験なので、新体験の有る無しで脳の発達に差が出て来る。
一方エゴはプログラムである為に体験に新しさを求める必要がなく、既に得た快感をなぞり反芻するだけで回って行く。
両者の道は分かれる。
と言うか、意識がエゴを手離し脳に新体験の歓びをもたらす者と、脳にエゴを同化させたまま制限付きの動きに留める者とに分かれる。
新生児となる時、胎児ではなくなる。
当たり前に両立しないものの間にある狭き門を、未練と葛藤で行きつ戻りつする、うみの苦しみ。
苦しみを生むものは圧迫と迷い、そして執着。
迷いを消化し、執着を消化する時、圧迫は新生への後押しとなるのだ。
胎児の夢を終える時。
(2023/7/17)