《出来ないこと?》
「何と言う美しさだろう」
先日幕を閉じたスポーツの祭典で、ひょんなことから幾つかの競技を眺めていた宮司。
冒頭の言葉はパラリンピック期間中に、ある競技の表彰式を観ていて驚きのあまり自然と出たものである。
オリンピックの表彰台でも、美しいと感じるものを見ることはあったが「何と言う」は付かなかった。
歓喜であれ祝福であれ感謝であれ、それらはどれも「それがそれ」と分かる美しさだったからだ。
だが、パラリンピックの表彰台で見ることが出来たその美しさは、言葉で即座に表すことが難しい様な、驚きに満ちたものだった。
何故、言い表すのが難しかったのか。
それは、これまでに見た何にも似ていなかったからだと気がついた。
正確には、これまでに見た人間に関する何にも似ていなかった。
言葉を失う程のその「美しさ」に、違う表現で最も近いものをあてるとしたら「清々しさ」だと言える。
青く澄みきった空の様な美しさ。
画面の向こうの空は雲に覆われ雨も降っているのに、
高く昇って行く国旗を見上げる瞳の中に、
何故晴れ渡る青空を見ることが出来るのか。
この驚きを切っ掛けに、表彰台に立つ選手に対し強い興味が芽生えた。
結果に至るまでのプロセス抜きでは理解しきらないだろうと競技も含め集中して観察することにし、実に様々な場面を見る機会に恵まれた。
初めに発見して驚いた美しさだけの一回こっきりではなく、清々しい青空の美が現れる瞬間を幾度も見ることが出来た。
オリンピックで見た美しさとパラリンピックで見た美しさ、それぞれに意識を向けてみて気がついた。
オリンピアンもパラリンピアンも勿論、能力を磨き努力を重ねて力を尽くしている。
そこに差が出るとしたらそれは、「新体験の多さ」と「味わいの深さ」ではないだろうか。
先天的に「障害」と呼ばれる条件を得た人々は、自らの体験を世の多くの人々とは異なるものと感じる機会に多く恵まれる。
「みんなもやっていること」と見なして新鮮味が薄れることが少なく、未知の体験を丸まま純粋に受け取り易い。
更に、後天的に「障害」と呼ばれる条件を得た人々は、「それまでの身体条件での体験」があった上に、「新しい条件下での体験」が加わる。
それまでとそれからで、全く違う感覚。
当たり前に様々な面で、生活も大きく変化する。
競技者として、生活者として、無数の変化に相対し、一つ一つ体験し味わって来た人々。
これだけでも凄いことだが、「思い通りに行かない」経験によって、逆に「思いから自由になれる」とも気づいた。
何かが出来ないことになる時、別の何かが出来ている。
人は結局、何かしらをしている。
することの種類が変わるだけである。
「何となく今日も明日もこの体はこんな感じ」と言った、世間で健常者と呼ばれる人が陥りがちな薄っすらとした予定調和。
そこから解放される機会に、「障害」を得た人々は恵まれる。
それは即ち、エゴで運命を操ろうと意図してハンドルをガッチリ掴んだ状態から解放されることでもある。
勿論「新しい条件下での予定調和」を意識して、そこにはまり込むことも出来る。
訪れた機会にどう向き合うかはその人次第となる。
人生は、意図しない場所にこの身を運ぶこともある。
そう理解し受け容れ、新しい体験を深く味わうなら、何と豊かな道となることだろうか。
この道のりの遥かさが、あのどこまでも広がる空の様な美を生んでいるのだと腑に落ちた時、満足と共に深く感謝した。
単純に成果だけ比べて数字の上で優劣をつけるなら、健常者と呼ばれる人に軍配が上がるものは多いだろう。
だが、新体験の多さや味わいの深さには、数値化することが出来ない豊かさがある。
清々しさと同時に、豊かさがあるのだ。
競った者同士で健闘を称え合う姿。サポート役の人々へ感謝を表す姿。世界中どこの表彰台でも見られる姿に、
無数の新しい体験を昇華して来た強靭さと、
運命を操ろうとするエゴから解放された素直さが加わる時、
驚く様な豊かさが生まれる。
見させて頂いた表彰台の豊かな勝者達に意識を向けていて、あの場で「勝ち誇っている」人を、一人も見なかったことに気がついた。
勝ち誇ると言う態度は、貧者の発想から生まれるものなのかも知れない。
出来ないことで、出来ていること。
(2021/9/6)