《儘の限り》
「人は何故これ程までに、思うことに夢中なのか?」
この問いが生じたことから思うについて掘り下げようと調べる内に、「あぁこれは」となるものに一つ行き当った。それが、
思いのまま
意味は「心に思う通り。思う存分。」となる。
心に思う通りになることを、人は望む。
求めるまで行かなくとも望みを持つこと位はする。
そしてその望み通りに行かない時、別の“案”を思うことで修正をかけて、調整して妥協点を探る。
しかしやはり、思いのままへの望みは残る。
これは全体一つの虚空としての原初の感覚記憶が、表層意識にとんと忘れ去られたままでも奥の奥に眠ったまま残っているからではないかと気づいた。
全て、自ら。
それが捻じれてこの私と言う自らと変換された。この中途半端な不覚アレンジによって、人はその人の目に映る世界を思うままにしたがる。
元は只虚空であったのが、無数の粒々としてばらけて所謂“他者”的存在を認識する様になったことで、変化が生まれた。
物理次元と言う土台、そこで生きる人々、個人として実現したいことが出来た途端に、それらを自分の思いのままにしたいと言う欲望が芽生えたのである。
同時に、端末としての個人はあくまでも全体の一部であり、一人がその他を思いのままにすることなど不可能と知ってもいる。
つまりは全てを燃やしたい炎と、そこに注される水と、両方を同時に手に入れた訳だ。
そして、燃しちゃあ水注して消しと繰り返すことであっちでもこっちでも煙を立てて、あくなき願いの狼煙を上げ続けている。
狼煙上げ合戦の果てに、不覚社会の視界はかつてない程不明瞭に。出しまくった煙に巻かれて、明日が見えないと騒いでいる。
思いのままの、まま部分も漢字にすると思いの儘。この「儘」は、我儘や気儘と言った使われ方もする。
「儘って、何だ?」
となった。
思うについて理解を深めるのに、儘について知ることも重要と感じる。
儘の右側にある「盡」は、聿(ふで)+灬(筆に含まれる墨)+皿(皿の墨)で構成されており、「筆の墨が尽きてしまう。尽きる。」状態を表す。
そこから漢字の意味は「残り少なくなる、最後まで力を尽くす、尽く」となると言う。
下に付いているちっちゃなポチポチ、四つの点は漢字の中で火を表すことが多いが盡では違うらしい。
尽くすの意味がある盡は尽とも書くので、思いのままを思いの侭とも書いたりする。
人偏が付いたことで「人間の行為」の意味が足されたので、儘は「ありったけ、我儘、気儘」の意味を持つ。
気儘は「その時の気分に任せて」「風の吹くまま気の向くまま」と言った感じの、何だか身軽でのんびりとした状態。
全一の流れに沿った気のまんまなら、瞬間瞬間のやり尽くしが出来て弥栄だろう。
我で歪んだ意識状態によってあちこち風向きが変わる気分に任せての気儘であるなら、それなりとなって来る。
ありのままも実際にある通りの偽りない姿なら弥栄、「これならアリ」と限定した有りの儘なら、それなりとなって来る。
どうやら儘の字で墨の入る部分が“皿である”ことが、儘の限界を示している。
量の知れた墨だから、割かし早く切れているんじゃないだろうか。
小皿は調味料や薬味、彩色に使う絵の具の一種類等、少量で十分なものを入れるのに適している。
大皿や深皿に墨を入れて使うと言うのは見たことも聞いたこともない。
平たいものに入れればそれだけ空気に触れて乾き易くなる。
もしありったけを記そうとするなら、壺を使う方が適している様に感じる。
実際、菫の由来になったと言われる大工道具の墨入れは、より知られた名称として墨壺と呼ばれている深さの有るものだ。
多分皿では仕事にならないからだろう。
思いの儘になることを望みながら、他者の我儘な行動に眉をひそめたりもする不覚の人々は、儘にならぬが浮世の常と言った慣用句も編み出している。
しっちゃかめっちゃかである。
儘にならぬが浮世の常に類する表現で、花は折りたし梢は高しと言うのがある。
梢は木の末であり、木の幹や枝の先、木の先端のことを表す。
高所の最先端を取りに行く。
それは、一体何をどう求めての行いか。
我が手に入れる為だけであれば、高き梢に届く追い風は吹かない。
高みの先にあるものは、我が為のみには手に入らぬと分かっていれば、無駄な手折り願望に身を焼くこともないのである。
我では、尽くし切らぬ。
(2022/4/14)