《何でもないから》
望ましくないことを、望ましいことに変えたい。
まだ手にしていない欲しいものを、得たい。
現状よりもっと、優れた状態にしたい。
この様に“何でもなくない”場合、人間は願いと言う念力を使って、進路に書き換えや書き加えをしようとする。
だが“何でもない”なら、わざわざ念力を使うまでもないことと見なされる。
疑いようがなく“そうである”ことは、願望による手出しで弄られない。
認知もそうした個々人にとって「何でもないこと」ことの一つであり、その分、虚空からのメッセージがすんなり届くこともある。
何でもないから、無とも呼応する。
但し、その認知地図が歪んでいなければの話である。
不覚者はエゴによる癖付けがある為、物の見方に偏向がある。
大なり小なりその認知は歪んでいるが、それが極端な場合を不覚社会でも「認知の歪み」と表現する。
認知は歪めることが出来る。
病の一種として、目立つ歪みと付き合っている人々が居るのとは別に、認知の歪みを後からじわじわと大きくする人々も居る。
それまで開かれていた認知がクシャクシャになったり丸まったりすると、表示される地図の内容も変わって来る。
俗に認知症と呼ばれる状態で、本人にとっては
「至って普通のこと」
が、周囲から見たら
「崖から崖に飛び移る位突飛なこと」
になるのは、クシャクシャになったり丸まったり、所々破けて裂けたりした地図を使ったナビの結果である。
認知は目に見えない地図なので、
「何でこうなるのか」
「何でそんなことするのか」
と、不可解な事態が発生する。
人間にとって「何でもないこと」とされているが、実は認知には念力よりも遥かに大きなエネルギーが使われている。
大きな力をかけ、虚空による全体一つの意志とは別に、個々の端末の自由意志により認知は出来上がっている。
その個々の意志と全体の意志が同じ流れとして沿っている時に、端末それぞれに巡って来る役割も自ずと納得出来るものとなる。
虚空の後押しする
「全体一つであった感覚記憶を蘇らせる」
と言う本道に沿って認知をする端末、歪みは残してもそうした本道認知に向かって変わりつつある端末は、時々に応じて割り振られる役を、納得して引き受けられる様になり、そこに自然な歓びも生じる。
新世界に合った役割が巡って来るかどうかは、分割意識の状態による。
意識の自由意志で出来上がっている認知も、その役割分担に当然大きく関わって来る。
本道のテーマは、
「全体一つであった感覚記憶を蘇らせる」
ことであり
「個の殻を出て誰でもない者として新生する」
ことであり
「物理次元の観察者としての役割を全うする」
ことであり
「天意を愛として世に現し、天意からの愛と祝福、感謝と歓びで生きる」
ことである。
母であり子、子であり母として。
先に進むにつれて新しくテーマは生まれて来るが、どれも、
「他より優れる」
「これまで通りに」
「特別恵まれる」
「平穏無事に」
「身内だけ」
と言った、ものとは特に関係がない。
そうした古いテーマに沿った方向に認知地図を広げていると、割とすぐにカサついてクシャクシャに丸まり易くなる。
殊に、「自分」を「その他」より突出して重要視する認知地図は、特別な感じがする点だけ望み通りで、それ以外においては当人のエゴも全く望んでなかった役をする方にナビが向かう様だ。
世に起こる様々な出来事のニュースは、それを教えてくれる。
自他の凸凹を含む認知の歪みを解き、
真っ新な意識で、
全体一つの流れに沿う。
納得して役割を果たすのに、必要なのはこれだけである。
何でもないから、空となる。
(2022/1/24)