《仮と本》
前回記事にてお知らせ申し上げた、矢継ぎ早に訪れた理解。
それは一人のシンガーの正体が明かされたことを切っ掛けにして起きた。
その人物が誰であるかについて、当日集まった解答者は当てることが出来なかった。
仮面と言うより明らかに着ぐるみであるが、この姿ごしに人々がイメージしていた人物像は、アイドル。
昔風な表現をすると、二枚目。
ところが蓋を開けて出て来たのは人を笑わせることを仕事にした、先程の表現に倣えば三枚目にあたる人物だった。
パネラーや観客は意外さに驚き、盛り上がる会場。
ここを経て、舞台上のシンガーは素顔を見せたまま先程仮面を着けて歌っていたのと「同じ歌」を披露する。
敗退が決まり、以降は登場しない演者の花道を作る計らい。
加えて、改めて歌を聴くことで当たり前ではあるが
「あぁ間違いなく仮面を着けていた時から中身はこの人だったのだ」
と、観る者に実感させるはたらきがある。
そうして盛り上がる中で歌い終え、次回の予告を経て番組も終了となった。
最後まで一度観た後に何だか引っ掛かる感じがしたのでそこから遡り、まだ仮面を着けていた状態での歌い方と話し方を確認した。
仮面込みでは、好きとか格好いいとか言われていた人が正体を明かして、その場に集まった人々から、
「あ!〇〇さんだ」
の目で見られた途端、常日頃持たれているだろうイメージに沿った、格好よさではなく面白おかしさを強調する身振りや口調で話し始めた。
その後で披露された仮面抜きの歌唱も、普段の芸風に合わせた調子になっていた。
あれ、こんなんだったっけ?
と首を捻り、そこで一旦仮面込みの時点に戻って観察してみた訳だが、引っ掛かりを感じた通り随分違っていた。
誰だか分からない様に音声を加工してあることで、話し方も変わる。
普段のノリを出さない様に気をつけて、仮面の印象に合ったキャラクターを演じている
と同時に
お馴染みの「〇〇さん」としての仮面が外れて、普段は出さない一面が垣間見られる
ことも起きていた。
“覚めないことと、仮の面を着けることは似ている。
ところが、全身を“仮面”で覆って普段の姿を失くすことによって、より自由になる姿を見たのだ。”
と前回記事に書いた。
一人の変化だけでなく他も見てみようと、誰なのかが明らかになる前と後とを比較して出演者達を観察した。
すると前後でそれ程変わらない人も居れば、はっきりと違いが出る人も居て、実に様々で面白かった。
全ての出演者に共通していたのは、仮の姿である時、非日常とそこに在る自由を楽しんでいる様子だったこと。
誰でもないものとは行かないが「ちょっと誰だか分からないもの」として歌い踊る時、その謎のお陰で“仮面”の中に納まって隠れている「○○さん」の印象から解放される。
人はセルフイメージに執着する一方で、飽きたり重たく感じている所もあるのかも知れない。
仮面の中も又仮面。 仮面で外れる仮面。
では本体は何処に?
本音は何処に?
本心は何処に?
そもそも人は何を本音とか本心と呼んでいるのだろうか。
そして何を以て本体として居るのだろうか。
こうした問いが次々に生まれ、それに対しての理解も同時に起きた。
人が本音とか本心とするものは固定観念の影響を受けて起きる、情動反応に沿ったものであることが多い。
意を決して淡々とであったり、情感たっぷりの熱い涙と共にであったり、明かされる時のノリは色々。
だが、どれも「ワタシのキモチ」「ワタシのカンガエ」を表明する内容であることは変わらない。
ところがその「ワタシ」も又、全体一つの虚空から観れば無数にある仮面の一つなのだ。
仮面を着けたり外したりすることで本音が変わるのなら、それは仮の本である。
仮でも本を名乗れるのかと首を傾げてたら、“本格的”とメッセージが来て「おぉ!」となった。
本物と、本格的な物とは違う。
格を付けたり的を大きくしてそれ風にしたものと、それそのものは違うのだ。
一個人にとっての嘘偽らざる本音や本心は、あくまで本人に限ったものであって本格的の域を出ない。
本や本とは何かを腑に落とし実感するのは、意識が個を超えて空に還ってからである。
解答者や観客の喜びの大きさは、明かされた正体が意外なものであることと比例している。
それに気づいた時にも口笛が出た。
当てたら何か貰えると言った損得が発生しない時に、初めて見えるものもある。
これだけ都合によって意のままにすることを求め、頑固に目を瞑っておきながら、人はやはり未知の驚きや予想外の結果を求めてもいるのだ。
お気に入りも、仮初めの一面。
(2022/8/25)