まじわるちから

 

いいクスリとは何かについて意識を向けたことを機に、世の中で多々求められる「良く」と「効く」の、効くの方にも興味湧いた

 

本日はそこから至った理解について書かせて頂く

 

の字を分解するとシンプル

 

 

 

 

であることが分かる

 

効とは力の交わること。

 

その動きによって、期待した結果が出ることを人は効果と呼ぶ。

 

力が交わってもその後に、期待していたことが起きなければ、効果がないとされる。

 

努力が実を結ばなかったとか言ったりするが、力をかけて求め結果に繋がるかは特に保証されていない

 

効き目と言う果実を得る為に人間は沢山の努力をして来たし、現在もそれは続いている

 

 

効き目として「目」を使う言い方も、興味深い表現だ。

 

賽子の出目みたいに「効果アリ」「効果ナシ」はコロンコロン回るのだろうか。

 

それとも潮目を読むみたいに、変化を見逃さず対応しようとして目の字を使うのだろうか。

 

いずれにせよ結果の出る前の効はシンプルな力の交わりであり、必要ものは2つだけ

 

当たり前に、

 

そしてもう一つ別の、

 

こう書くと「何て普通のことを言うのだ」と呆れる程、当たり前に映るかも知れない。

 

この普通のことには、全母たる虚空個々に分かれた理由見事に表れている

 

別々でなければ、交われない。

 

このことの意味そして奥深さを改めて味わっていた時、不意に更なる理解起きた

 

 

全母たる虚空にとってあらゆる個と個の力の交わりは、全て「効」なのだと言うこと。

 

そして交わりから生じた結果は、善悪や優劣の評価は一切なく、丸まま全て「効果」なのだと言うこと。

 

体験をすると言う意志を放ち実行した効果

 

丸ごと効果の実である物理次元何と素晴らいことかと、数多ある分神1つとして心底より感謝を捧げた。

 

 

 

すると同時にを生むである天意満ち溢れるのを感じ、「母であり子、子であり母」実感をより深めることとなった。

 

交の字は人の足が交差する様子を描いた象形文字なのだそうだ。

 

資料にあったこの説明を読んで、だとすればまさに交わりの本質を示していると頷いた。

 

右足と左足の存在にない

 

 

大元の0である無限なる虚空から生じた、

 

本質的には同じである1なる世界に在って、

 

わざわざ無数に分かれた内の2つが、

 

その力を交わらせる時、

 

歩みが生まれる。

 

力の関係に差を見出せるのは、傾いた価値観のフィルターで覆った眼でモノコトを捉えた場合に限られるのだ。

 

 

こうも、くうよりしょうず。

(2023/4/6)