《世に立つ基》
“たらちねのははの教はせばけれど
ひろき世にたつもといとぞなる”
先週記事にて《みんなの母神祭》を書かせて頂いた後、程なくしてとんとん拍子に宮司の行う祭の行先を始めとするあれやこれやが決まった。
面白い様にさくさくと詳細が決まって行く時、流れに乗っていることを改めて実感する。
しかし「火か水」のはずが、何でか「火と水」になっている所が気にはなる。
結局二つのビジョンにおける殆どの要素が入った祭の全体像が浮かび上がって来た。
それどころか、
「何で鍾乳洞まで入れて来んのさ」
火、水、穴?
こっちは、焚火して滝と川に行って、温泉も行くのだ。
幾ら何でも過積載だろうと言いかけて、あっと気がついた。
「鍾乳洞…垂乳根か!」
垂れる乳がどっさりの洞窟内で、全母性の限りない豊かさに意識を合わせて、静かな時を味わうことで更なる深い愛が開かれる。
素敵な祭だと、嬉しく感謝した。調子のいいことである。
「たらちね(垂乳根)の」は「母」、もしくは両性どちらでも関係なしに「親」にかかる枕詞。
古くは専ら「母」にかかっていたが、その後「親」全般にかかる様になる。
全母性が、男女どちらの端末にもあることを示している表れであり面白い。
そこに、母のことを「たらちめ(垂乳女)」にして、対する父のことは「たらちを(垂乳男)」と言ってみる、謎の展開が発生。
出来事の表層を見れば男達が「俺も!俺も!」となっている様が浮かんで来るが、深く観察するとこれは
乳はどちらの性からも空間のどこからでも垂れて来る
と、虚空が伝えていることに気づける。
ところが母を「たらちめ」に押し込んで、父こそ「たらちね」だとする、母性ハイジャック的な使い方も出て来て、たらちね周辺のルールは結構不安定。
枕詞として使う枠を超えて「たらちね」は、
1 母。母親。
2 親。両親。父母。
3 父。父親。
と3つの意味を合わせた、訳の分からない言葉になった。
2を境界線に、1と3が権利を主張。
空間にエネルギーを送り続けている全母たる虚空から特にツッコミが入らないのをいいことに、わしこそ乳の根っこじゃいと男と女が母性を奪い合う様な摩訶不思議な展開になっている。
冒頭の和歌は、「はは」を「には(庭)」にして
“たらちねのにはの教はせばけれど
ひろき世にたつもといとぞなる”
となっている場合もある。
「家庭」と範囲を拡げることで男も女も喧嘩しなさんな、と両方にたらちねを付けてくれる親切設計だろうか。
だが肉の親の教えは個母にしても個父にしても不覚常識で歪められているし、各人が持ち込むマイルールの傾きがそこに加わり非常に狭い。
広き世に立つと言うのも「立身出世」程度の話であり、生きて行く為の基にはなるがそこで止まってしまう。
この歌の真の意味は、
“全母からのメッセージはシンプル。
それが新世界に立つ基となる。”
である。
全母の送るメッセージは、特定の人物を秀でさせ上手くやって行かせる為のものではない。
そのことを理解し実感出来れば、上手くやって行く必要は別にない。
普く照らし万物を活かす日の光の如き天意が、慈雨の様に降り注ぐ“乳”。
この乳により只今ここに生きて在ると分かる時、あらゆる恐れは消え去るのみとなる。
根に感謝し、真っ直ぐに立つ。
(2021/9/30)
《9月のふろく・出向祝福メモ秋編》
母神祭の催行にも、それ以外のお出かけにもご活用頂けるメモをこしらえました。
ひょうたんには日付、
種の入った柿にはこのお出かけのテーマ、
左の栗には出向く場所を、
右の栗には実行されたことを、
それぞれ書き込める様になっています。
椛の木に重なる大きな満月には、
このお出かけで知ったこと、感じたこと、分かったことを自由にお書き下さい。
文字の形にして初めて見えて来ることもあります。
この季節ならではの新しい体験を存分にお楽しみ下さい。