《万事了解》
あまり数回にわたって繋がる様な内容を書くと、お受け取り頂く時に飽きが生じることもあるので普段はしないが、
「認知の歪みを解くって言ったって、一体どうやってするのさ?」
と言う点には、お答えしておく必要を感じる。
本日記事ではもう少しだけ、この辺りについてお知らせ申し上げる。
何でもないから、無とも呼応する。
月曜記事で、認知についてこの様に書いた。
何でもないからこそ意識されない認知は、そこに発生ししている歪みも手付かずになりがち。
既に書かせて頂いた様に、認知は認識を新たにする切っ掛けとなる何かがなければ、中々変化しない。
意識が認識を新たにする切っ掛けは、知識として新しい情報が入って来ることで起きる。
だが、紙や画面に書かれただけ、人から聞いただけの情報では、認識への変化はあまり定着しない。
情報を沢山集めても認知も現実も大して変化しないのは、柔らかなものをちょっと引っ搔いて小傷を付ける程度のことをして、気がついたら元に戻っている状態だからである。
痒い所に手をかけて多少ポリポリとやって気を紛らわすことと、さして変わらない。
認識、そして認知の歪みを解くのに必要なのは、体験に裏打ちされた知識なのだ。
ちなみに「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは、一個人の経る体験に限らず、人類全体の経て来た体験から学ぶ必要があると言うことで、実体験を軽視して歴史の記録に目を通しただけで何か分かった気になることではない。
歴史は無数の人々の、想像ではなく実際に経た体験によって出来ている。
体験して、了解となる。
万事、了せずして解けるものなしである。
体験による実感を伴った情報が知識として入って来る時に、認識は新たになり、それは認知地図にも変化を起こす。
エゴを残した分割意識は、「これはこう言うもの!」と決めておくことを好む。
その方が安心出来るし、これはこう言うものと固めた状態にして集めておく知識コレクションがあると、自らがより賢く優れたものになった気がするからだ。
不覚の意識が大事にする安心と優位性を、「そうとは限らない」は揺るがす。
「どうなるかなんて分からないから安心出来ないぞ!」と言うのは不覚の人も結構好きである。
だが、これは「危険がいっぱいだぞ!」とか「気を抜いてると酷いことになる可能性があるぞ!」と言った暗めの方に意識の向く先が絞られている固定観念であったりする。
どうなるかなんて分からないを、どんな風に変化する可能性もある完全な未知として放っておかずに、暗めの色を塗ろうとするのはやはり偏向になる。
予めの固定は意識が安心を求めて起こしているが、集中して体験を行い、それによって増えた実感を伴う知識で認知に変化を起こす充足は、安心を求める思いを遠ざける。
充足と不安は両立しない。
進むことと、立ち止まることが両立しない様に。
習慣となっていた行動を変えてみる。
難しければ部分的にでも。
やったことのない何かを始めてみる。
行ったことのない場所へ行ってみる。
食べたことのないものを食べてみる。
何をするにもまず、「これまで何を習慣化して来たか」「慣れ親しんだ行動にどんな傾向があるのか」を観察して、傾向を離れた未知を味わう必要がある。
元々、旅行好きな人が、行ったことのない場所に行くのは割と容易い。
元々、食いしん坊な人が食べたことのないものを食べるのも容易いだろう。
それらはやり易いだけ起こす変化も小さいので、痒いとこポリポリ掻いてちょっと落ち着く気休めで終わることもある。
習慣の轍が深く刻まれた部分に意識を向けて、普段と違う方に変えて動いてみることは、大きな変化を生む。
石橋を叩いて渡る様なアプローチが好きな人が、どちらに転んでも構わなそうなものに出会えたら、即断即決を体験してみる。
すると案外と大きな違和感が生じるのに驚くかも知れない。
習い性の作った認知の歪みは、事の大小に関わらず反応し警報を発するのだ。
だが、それは歪みが出して来た「うわ~、解けちゃうよ!」の警報である。
虚空は警報を発しない。
善いも悪いも、好きも嫌いも超えているから、警告の出しようがない。
叱ったり脅したりしてくれない、なだめすかすこともご褒美で釣ることもしてくれない、見えざる何かとの呼応は分割意識の成長を促し、体験は御神体との呼応も促す。
包み隠さず観察すること、習慣や傾きを発見したら恐れず行動を変えてみること。
それを愛で行う時、解けぬ歪みはない。
万事了解してみよう。
(2022/1/27)