《七難去って?》
肌理の整いに、好みは介入しない。
だが肌について、人々の持つ好みが全く影響を見せない訳でもない。
諺にある「色の白いは七難隠す」も、その表れの一つと言える。
これは、色白の女性は顔かたちにあれこれ欠点があっても、それを補って美しく見えると言う意味で使われているそうだ。
あくまで日本人の間における
「色白?色黒?」
と言うバリエーション内の話ではあるのだろうが女性限定にしていることもあるし、令和の世ではこの表現も幾つものハラスメント判定に引っかかりそうな気がする。
色白が色黒より上等として扱われたのは、この諺が生まれた当時に
肌が日に焼けていない=働かなくとも良い暮らしぶり
と、人々が連想したことも関係するだろう。
勿論いい暮らし判定による偏見だけで出来た言葉はない。
肌が焼けることによって乾いたり荒れたりもすることは、紫外線の存在を知らず肌チェッカーもない時代にも目視で気づける。
やがて時代が移り変わり、機械化が進んで会社勤めが一般的になった不覚社会。
屋内での仕事が増えるにつれて、肌が焼ける意味も変化する。
働くことではなく、レジャーやスポーツを含め日の当たる場所で“健康的に”体を動かすことをイメージさせる様になった。
そうした健康美や、ワイルドに傾いたカッコよさを求めて男も女もわざわざサロンで日焼けをする流行りが訪れると共に、一旦は有効性が薄れた七難隠し。
健康に対する知識が増え「過剰な肌への刺激は不健康」と、焼かない派が増えて盛り上がると同時に色白は再び株を上げる。
人々の気分と流行りで起きるこうした上げ下げには切りがないので放っておくとして、肌の色味は焼いたりして濃くなることはあっても、自然な流れで生まれた時より薄くなることはない気がする。
つまり赤ちゃんとして生まれ、赤みが落ち着いたら最も色の薄い状態となり、そこからそれぞれに焼けたりくすんだりして濃さを増す流れ。
そう言えば、シワクチャだったり丸々としていたり差はあれど肌荒れしている新生児と言うのは聞いたことがない。
骨は成長し筋肉は成長と同時に鍛えられもして伸びたり大きくなったりする。
どれも細胞の集まりなのに、肌の質についてだけは誕生時がベストで伸びしろがないと言うなら不思議なことである。
それにしても色白で隠されると言う「七難」とは、一体何だろうか。
説明を読んでみると、多くの欠点や難点のことを意味するらしい。
数が増えただけで、中身についてはスルーされている。
七難だけでなく十難とも言ったらしいので、山程とか沢山の意味で使われている感じ。
多いのは分かったが何を難だと見なし、難癖つけているのだろうか。
「七難の内容って具体的にどう言うものなんだろう?」
説明の後に、例文として「色の白いは七難隠すで、顔の造りは平凡なのに、彼女はとてもかわいく見える。」と書いてあった。
って、どんな顔?
この例を見るに少なくとも顔の造りが平凡であることは、難の一つとしてカウントされる模様である。
デザインのことなのか。
平凡なのはマズいのか。
何を以て平凡なのか。
謎は増えるばかり。
首を捻っていて、そうだった覚めぬままの意識達は迷宮入りが好きなのだと気づいた。
答を出さなければ、ずっと比較バトルゲームを続けられると思っているからである。
満たされたい欲と満たしたくない欲とを抱えて、我が身に難癖をつけて欠けを探している。
七難去っても又、別の七難がやって来るだけなのだ。
止めなければ終わらない、訳ではない。
(2023/6/8)