《キャラ格子ごうし

 

日々、様々な出来事として訪れる新体験の機会

 

それについて先日、多岐にわたる内容でのご報告を頂いた。

 

体験を伴った進化の経過をお知らせ頂いているありがたい内容だが、どうにも奇妙な感じがすると静かに眺めていて成程となった

 

その方の見ているビジョンの中に、その方の姿がない。

 

このことに気がついたのだ。

 

「そんなの当たり前じゃないですか」

 

と、感じた方もいらっしゃるだろうか。

 

「そんなの当たり前じゃないですか。だってその人が見てるんだから」

 

と。

 

では、こう変えてみたらどうだろう。

 

「そんなの当たり前じゃないですか。だってが見てるんだから」

 

その「私」と言う限定された視点から解放されているのが、全体を包括する誰でもない者としての観点なのだ。

 

誰でもない者として世界を観察する時、数多の人型生命体の中で便宜上一応これが「自ら」だとしている一つも又、登場人物の一人である。

 

他の登場人物達との間に、一切重要度の違いはない。

 

上座に置いたりしないし、下座に据えたりもしない。

 

そして一応「何の誰それ」とラベリングしてあっても、その人物に関して能力や性格等のイメージを特に固定しない

 

「自分」とされる人物についても「他者」とされる人物達についても。

 

 

 

つまり推理小説や映画のパンフレットなどに書かれた人物紹介の中にみられる、キャラクター設定みたいなものが特に定まっていないのだ。

 

○○さんはこんな人、これを架空の人物だけでなく実在の人物にも、令和になっても人は結構定めがちである。

 

殊に「私ってこんな人!」のイメージは、最も距離が近く付き合いも長いので、ガッチリシッカリ固まっている

 

一本一本に「私は○○」と呪文の様に特徴の紹介が彫られた木で作ってある、格子こうしを通して世の中を見ているみたいなものだ。

 

それでは丸ままの世界を観ることは出来ない。

 

格子が視界を遮ることで隠れて見えない部分が生まれ、世界は沢山のちっちゃな四角に分断される。

 

 

四角は転がらず、積み重ね易い、安定した図形。

 

礼儀正しい

 

常識人

 

お節介

 

喧嘩っ早い

 

気にしい

 

 

挙げて行けばキリがない程様々な特徴や傾向があるのに、その中のごく一部を集めてブレンドした私スペシャル不覚社会の人は「これこれこの味」と繰り返し嗜んでいる。

 

実際は「私がこれこれこんな人である」訳ではなく、

 

優しい私。我慢強い私。穏やかな私。気が弱い私。勝ち気な私。有能な私。抜けてる私。気まぐれな私。せっかちな私。のんびり屋な私。皮肉屋な私などなど、どの一面もある

 

只それだけである。

 

認めている以外の、それこそ想像したこともない「私」だって存在する。

 

 

本当に格子の外に出ることを意識が受け容れ始めているなら、これまで固めて限定して来た分だけ「まさか私にこんな一面が!」と驚く様な展開がやって来る方が自然なのだ。

 

驚くと同時にこれまでの自分格子、自分と信じたキャラ格子に罅が入ったり崩れて行ったりぐにゃりと曲がったりする様な、意識変化が起きる。

 

「まさか私にこんな一面が!」の次に、

 

「え?でも私とは?何故定まっていると決めていたの?」

 

 

気づきがどれだけサクッと来るかが、ある意味から意識自由になっている度合いのバロメーターと言える。

 

キャラクターの語源は「彫る」「刻印」を意味する言葉にあるらしい。

 

我思うゆえに我ありと彫りつけた印が「私」だと言うなら、私を刻んでいるその手は一体誰のものだと言うのか。

 

どれだけ優美な文字優雅な言葉格子に刻むかの為に、人型生命体は存在している訳ではない

 

自由意志により、一時いっときそれも可能だったと言うそれだけのことなのだ。

 

格子で覆えぬ広がる青空。

(2022/10/3)