《「なぜ?」?》
「なぜこんな事件が起こるのか?」
「なぜあの人は去ってしまったのか?」
世の中で驚く様なニュースを目にした時、中には火事場見物の様にして出来事に興奮する人達が居る。
類焼したかの様に傷ついたり意気消沈する人達も居る。
そして、謎に感じる部分について意識上で“考察”することで、追いかけてみようとする人達も居る。
本日記事ではその、出来事を追いかけて沿道を並走するタイプの謎ウォッチャーについて書かせて頂く。
当人でない者が傍から何をどう考えようと察しようと、真相が知れることはないのだが、「なぜ?」と追いかける人達の目的は真相究明にはない。
気が済むまで追いかけて、納得は出来ないにせよどうにか治まる所まで持って行きたい。
問う者は、自身の心を落ち着かせる為に「なぜ?」を追っている。
一体全体その落ち着かない心境はどこから来ているのだろうか。
「なぜ?」を観察して、「人間は謎に弱い」と言う性質を持っていることに改めて気づいた。
人間は謎に弱い。
表層の出来事に留まらず内側を深い所まで降りれば「人間とは?」「有とは?」と言った謎がある。
その奥の「生とは?」「死とは?」の更に奥に、「虚空だった」ことを発見するまでの旅を求めて、
人には謎を追う性質がある。
だが、不覚の意識には座ったままで手が届く様な所ばかり探る癖がついている。
「寂しい幼少期」「傷付いた過去」「複雑な人間関係」「不安定な精神状態」「暗い世相」等の、謎に関する色々なお約束が溜まっている浅瀬を掻き回して、何か出ないか探ることはあっても、
「そもそも謎とは何だろう」
「人類はどう言う出来事に謎を感じて、それを追いかけて来たんだろう」
と、深い所を探ってみようとしない。
浅瀬を掻き回して探っている間に、出来ることもある。
自ら抱えたままの、内なる謎には向き合わずに居られるのだ。
答がちゃんと出るのはそっちの謎の方だろうに、そこに向き合うのは怖がって避けたりする。
仕事や課題の締め切りがある時に限って、掃除がしたくなる様に、
大掃除の時に限って、片付け途中で見つけた本を読みふける様に、
「しなければ」が発生すると脇道に逸れたくなるプログラムを持っている人は居るものである。
先延ばし癖を持つ人々は「結末がどうなっても自身にとって痛くも痒くもない謎」ばかり追おうとする。
一方、「しなければ」が発生すると、それに対して燃え上がり盛り上がる人々も居る。
やらずに残しておくことの方に抵抗を感じ、「どうせやらなきゃならないことなのに、先延ばしにする意味ってあるの?」と呆れる“現実主義者”な人々も又、別の目的で「なぜ?」を追うことがある。
衝撃的な出来事を使って、自らの内なる掃除を試みる算段。
誰かの身に起きた出来事を、折って畳んで棒にくくりつけて輪ゴムかなんかで止めて、
心の隙間に差し込んで埃取り。
人類進化に活かす名目で行っても、個を超えることなく結局は己の無事を確かなものにする為の掃除なら、内なるホコリを増やすのみである。
人の苦しみや死であっても、自らの安楽や生に役立てようとする、その“賢さ”と呼んでいるちゃっかり加減を直視すると、誇れるものはないと知れてホコリは減るし、ホコリまみれの古い自分像を脱ぐことも出来る。
己の仕事を回避することにも己の無事を確かにすることにも何ら興味のない、部分都合のない状態で出来事を観察する時に初めて、起きていることの流れが何処にどう向かっているか観えて来る。
世に起きる様々なことについて、今ここで腑に落ちて申し上げられることは、
母性、それも全母性と通じないで居ると、
これからの世に生きる上で非常に辛く、
そして苦しくなって行くと言うこと。
ちょっと転び易くなるとか、道がデコボコするとか、そんなものではない。
身を切るような寒さ、寂しさや虚しさ、無力感が吹き付けて来る。
その時に、
「おかーさーん!!!」
と手を伸ばして助けを乞うか、
「母でした!!!」
と真っ直ぐ立つかで、
道は分かれる。
迷宮入りも出来なくなる。
(2021/12/20)