《きらきらと》
本年も、ある場所に夏越の祓にやって来た宮司。
常に存在の消化と昇華は成されているが、輪っかくぐりもそれはそれとして又、面白いものである。
場所は毎回必ずここでと決めている訳ではなく、タイミングが合った時にノリで行っている。
今年は本殿に向かう途中で、願い事の書かれた短冊を付けた硝子の風鈴が並んで風に揺れている、美しい光景を目にすることが出来た。
硝子の鈴が鳴る音を、文字にするのは難しいが、「きら きら」と聴こえた。
輝く音が風に乗って楽し気に放たれる。
それを味わいながら、ふと浮かんだことがある。
お目にかかる機会のある方々の中のお一人から先日、意識がくるっと変わったとの嬉しいご報告を頂いた。
そのくるっとは、まるでに置き換えられる様な大きく明らかな変化で、意思を使って心を入れ替えましたと言う様な、願望を含んだものとは全く異なる。
これまでにない安らかさのある一体感と、感謝が自然と溢れているご様子が、頂いたメッセージから伝わる。
そのお知らせの中にあった「数々の無礼と至らなさを詫びると共に、心より感謝申し上げます」の文に目が留まったことが甦って意識に浮かんだのだ。
まるっと意識が変わると、これまで〝普通”だと思っていたことの奇妙さが、自他を問わず目立って見える。
その為、驚いたり詫びたくなったりと言ったことが起きても不思議はない。
詫びる気持ちになるのも勿論自由ではあるが、詫びねばならぬことは特にない。
伴走者は、同行する端末であると同時に、全母の代理でもある。
子育てをなさったことがある方なら、思い当たられるかも知れないが、ちいさな人が成長する過程で、矛盾した振る舞い、コミュニケーションの難しさ、力が余ってのヤンチャ、そうしたことは幾らもある。
そんな息子や娘が成人して、
「お母さん、あの時の無礼を…」
と言ったとして、親として成長を嬉しく感じはしても、詫びて欲しい気持ちってあるだろうか。
ちぐはぐでも、行きつ戻りつでも、一生懸命で。
それも、本当に、かわいかった。
そんな気持ちになるのじゃないだろうか。
「きら きら」と鳴る風鈴の賑やかな音の中、伴走させて頂いた日々の記憶が蘇り、微笑んだ。
それも、本当に、楽しかったですよ。
きらきらと鳴る、愛しき日々。
(2023/7/6)