《あ~んして?》
様々な味の中で、エゴにとって大きな魅力を持つ「旨」。
旨の字の上にある匕は匙、下にある日は甘が変形したものであると言う。
「甘い」にも「うまい」の読み方があり、甘にはこれ自体で甘いものと旨いもの、2つの意味がある。
あまさとうまさの近さについては、以前にも記事に書かせて頂いたことがある。
お匙で頂く甘いものな「旨」。
甘い考えとか甘さがあったとか、脇が甘いとか。
緩みやそこから来る至らなさを「甘い」と表現することもある。
大抵望み求めた結果が出なかった時に使うので、甘ければオイシくなるとは限らないのが面白いことである。
「お匙が重要なのか」
「匕」は匙以外に、人の横たわった姿や倒れた姿、そして女も意味するそうだ。
匕の字が持つ曲線からだろうか、この場合の女とは腰の曲がったお婆さんであると言う説を見つけたが、もっとシンプルに何にでも姿を変えることの出来るやわらかさを示している様に感じる。
お婆さんと言う解釈を分割意識が“古い母”を感じ取ったものであると読み解くなら、最も古い母、万物を生み成す全母がこの「匕」には表されている。
何も掬わなければ、匙の中は常に空だ。
お母さんが掬ってあ~んしてくれる甘いものが、旨いもの。
それのみならとんと幼い思い描きなのだが、旨いにはもっと深い意味がある。
お匙で受け取るものはすり切りにしても山盛りにしても、掬える分のみと限られている。
この「匕」は、適量を示しているのだ。
多過ぎず少な過ぎず、適した量で受け取ることが旨さとなる。
浴びる程の甘さは、旨さを感じるのに必要ない。
浴びれば全身ベタベタになるし、依存して中毒状態になるし、貯え過ぎて動き難くなるし、残ったものを磨き落さなければ虫歯となる。
その時必要なものを、思い残しなく、完全消化(昇華)する。
そうする時、生きること本来の旨さを味わえる。
他よりもオイシイ状態をくれと求め訴える必要がない、至福での味わい。
この旨さが分かって来ると、天意からの愛を行動として放出することで、振る舞いたくなる。
見えざる全母の分身、物理次元上に見える状態となった分神として、一匙を生み始めるのだ。
調理で「この材料は〇〇gにして下さい」と計るのと違い、人の行動は細部まできっちり狙ったりはしないし出来もしない。
その場に合わせた「目分量」で行われる。
これが個人的好みに影響されて決められた量であると、それぞれの求める味付けの差が大きい程、不調和が起きたり消化不良となったりする。
全体一つの感覚が腑に落ちるにつれ余計なことをしなくなるのは、目分量の目が個の都合に影響されない中立な観察をするものとなって行くからである。
偏りも、悪ではない。そして善でもない。
只、やってみたかっただけのこと。
偏らなければ出来なかった体験も沢山あるのだ。
それを認めた上で、向き合ってみて頂きたい。
これまで旨味と思って来たものは、何だろうか。
真の旨さは、新しさ。
(2023/4/27)
4月のふろく《旨し香ばし匂わしメモ》
味覚で旨さを感じる時、嗅覚の感知するものが影響します。
かつて旨味と思って来たものについて書き記してみた後に、その旨味と共にどの様な香りや匂いと表現されるものを感じて来たか。
それを観察するメモをこしらえました。
左上に日付を、旨味と思って来たものを右上の緑の団子に、旨味と共に感じて来た香りや匂いを左下の紫の団子にお書き頂けます。
匂いには、それらしい感じ、趣と言う意味もあります。
どんな趣を求めて来たでしょうか。
誇ることも責めることもなしに、その趣も中立に書き記します。
両側の団子に出て来たものを合わせて、真ん中にあるピンクの餡の入った白い団子にそれらへ向けた祝いを記します。
祝福と共に虚空へ還して、真新しい自由をお受け取り下さい。