《育て成す愛》
「うわ~、こんなんなるとはなぁ」
用意した土が丁度いい感じだったらしく、成長を眺めて楽しませて貰っている植物達の伸びがこの所えらいペースになっている。
「破竹の勢い?竹なんか何処にもないけど」
竹は衝撃に強そうでいて、最初の一節を割ったらスパーンと分けられることから生まれた、凄い勢いの表し方らしいが、「破く」と「割る」って同じに出来るのだろうか。
破るって何か、ひっちゃぶく感じだから、腕っぷしで竹を破砕するマッチョでも居たのかと、強力なイメージが浮かんでいた。
実際に竹を割ってみたことがないので良く分からないが、
初めに明確な意志が必要で、
後は流れに乗ると一気に進む。
と、言うことなのだろうか。
観察中の植物達は空間を割りもせず、ひっちゃぶきもせず、全体一つで楽しそうに伸びている。
成長とはそれ自体が歓びなのだと、当たり前のことを確認させて貰っている。
この勢いについて貢献出来たことがあるとすれば、十分な質と量の土を提供した位で、別に宮司を名乗るこれが緑の親指を持っているとかではない。
うっかり水を撒き忘れることもある、へっぽこサポーターである。
うっかりすると雨が降って、何となく天が足してくれるので全体的にthank youを言って過ごしている。
十分な質と量の土さえあれば、日の光と適当な水の提供だけですくすく育つ。
植物と人には様々な違いがあるので単純に並べて例えても限界はあるだろうが、人を育てるにあたっても、初めの土壌作りを十分にすることが、後から百の手直しをするよりも大きく響くのじゃないだろうか。
そんなことも学ばせて貰った。
土、水、後はたまにちょい足しする肥料と、苦土石灰とか言う謎の粉。
苦みも必要な点が、味わい深い。
こんな感じのラインナップで大して凝った提供もしていないのに、
毎日がお祭り騒ぎ。
この連休は雲や雨や風や雷が気軽に訪れ、その合間を縫ってちっちゃな蜂が花から蜜を集めに来て盛り上がっていた。
太陽に真っ向勝負みたいな目立つ所に、でっかい巣を作る蜘蛛も居る。
拡げに拡げた後、風にあおられて「あ~~~」と主ごと家が捲れ、違う場所に不時着してそこで巣を設営し直したりしている。
こうして植物や虫達のやり様を眺めていると、人類が目指したがる効率重視なスタイルではなく、気分や直感からしているだろう所も多い。
効率か、気分直感か。
植物や虫の間で誰も、どっちのやり方が正しいか等の判定を下さない。
人の様に評価したり矛盾を責めたり裁いたりしないのだ。
気づきはあるだろう。
「今度はこうしてみようか」となる「!」の訪れによって、少しずつ行動が変わることもあるかも知れない。
だが「ああすりゃ良かった」の後悔は、どの植物の伸びや虫の動きからも感じない。
そんな呑気な思い返しなんかしていたら食いっぱぐれてしまうし、死んでしまうことだってあり得るからだろうか。
危機感からの必死な「今を生きる」にしては、殺気立ってる様子もないし、怯えている感じもない。
植物と虫のどちらを観察しても、只今に関しての納得度合いが、人類とまるで違っている。
彼らにとって宮司の存在は、たまにジョーロやスコップを持ってその辺をウロウロしている背景の一部かも知れない。
していること言えば、土を用意して移したり、水を運んで来て配ったり、肥料を足したり、枯れた葉や枝を除いたり。
何かを生み出している訳ではない。
この指をパチンと鳴らしても、花びら一枚、水一滴だって無から作れない。
農家が名乗る生産者って、「育成者」のことだと気づいた。
自然も参加しているので人は「共同育成者」となる。
天意からの愛で育て成す体験の、何と豊かなことか。
面白さを十分に味わう機会を提供してくれる、沢山のいのち達に感謝する。
歓び広がる、いのちの祝祭。
(2021/5/6)