《動と激》

 

真の感動とは「神・動」であり、内なる神が震えることで、今まで気づきもしなかった見えざる天意触れる感覚が起きる。

それが天意からの愛発揮として「結ぶ」と、人型生命体に進化が起こる。

天意触れるだけでは、足らないのだ。

そのことに改めて気がついたのは「感動」と「感激」の違いについて意識を向けたことが切っ掛けだった。

感動、感激、どちらについても震えを感じる。

 


と言っても動と激じゃ大違いのはずだが、2018時点で不覚者の捉えている感動の感覚は、感激の感覚に極めて近い。

不覚感激が、「もう身も世も無く激しく震える」のに対し、不覚感動は「まぁ僅かに理性的な面は残しつつ、うんと震える」位になっている。

両者の境界は曖昧で、ことによると薄皮一枚の違い位しかない場合もある。

感動は、もっと静かで、切々と、沁み渡るものだ。

それは明るい中、音も無く降り注ぐ慈雨の様である。

 


感動の状態に在る時、言い知れぬ満ち足りが、内外の隔てなく起こる。

静けさの中に万物の美しさが感じられ、言葉なく、息を飲む。

不覚にあると、重要なこと「ちょっと似た別のもの」で置き換えて済ますことが良くある。

例えば「愛」「発情」で置き換えたり、「幸福」「興奮」で置き換えたりする。

「じゃあ、感激も感動の置き換え版なのか?」


そう問いかけたら意外な、そして深い答が返って来た。

感激に相応しい土台

が、必要。

完全に0に帰着し、誰でもない者として全一に則した動きをした上でこそ、まともに感激することも出来ると言う話だった。

感激は、不覚が扱うには力が大き過ぎるのだそうだ。

炊飯器からご飯をよそうのに、パワーショベルを使う状態。

 


美味しくご飯を頂きたいだけなのに、ちょっとの加減で炊飯器ごと粉砕する事態になる。

第一、よそいにくい。

この答で、感激について何となく感じていた「置き換えで片付けると残る違和感」がすっきりした。

感激には、エゴの思惑を超えた、何か間欠泉がピーと噴出する様な、得体の知れない力を感じていたからだ。

やはり、知りたいことは上に尋ねてみると早い。

 


「神・動」としての感動が起きた際、天意受け取るだけに留まらずに、に変えて、つまり自身の歓びからの行動に成して進化をし続ける。

それは意識の奥へと進む深化であり、変容と言う神化に直結する。

不覚から覚への移行期は、不覚の意識にとっては激動の時代

激動の中で、進化せずに表層に留まりながら感激を乱用する時、興奮苦しみがセットになって混乱は増し、それはやがて、意識にとっての激甚災害となる。

 

なるし、なってる2018。

(2018/10/11)