《キキキの視点》


全一なる虚空は光景では計れない。


だが光景に酔わず、「視えた!!!」どまりにならないなら、光景も今全体に必要なことを教えてくれる。

 

全く不思議なことだが数年前、目が覚めて半年程経ったある日の入浴中に「全母(虚空)の動き」俯瞰で捉えることが出来た。

水というのは固体と気体の中間の、変化そのものの流動的な様を持っている。


だからだろうか、思っても見ない気づきや情報は水を介して提供されることが多い。

 

アルキメデスの話が分かりやすい例であるし、電話を発明したグラハム・ベルには、アイディアを受け取る場所としてお気に入りの水辺があった。

彼はそこを「夢見る場所」と呼んでいたという。

 

目に映し触れるものが流動的であれば、対峙する自らの内側もまた、流動的となる。

本来の生ける水としての真価がひらき易くなるのだ。

 

 

全母の動きを俯瞰で捉えた体験の話に戻るが、その日、浴室で不要データを洗い流しながらふと、この分割意識が本当に虚空にあいた穴であり、御神体その穴に一番近い場所に居る存在だと腑に落ちた。

 

目覚めの瞬間にも分かっていただろうが、静かな実感としてこの端末に「起こって来た」。

 

バスタブで湯に浸かり、両手を湯から出して手のひらを見つめる。

 

 

目の前で右手をエゴシステム、左手を人型生命体達として、右で左を包みながら呟いた。

 

「わたし(虚空)が作ったものが、わたしが作ったものに縛られる」

 

左手で右手を押し返す。

 

「わたしが作ったものが、わたしが作ったものに抵抗する」

 

左を右から離す。

 

「わたしが作ったものが、わたしが作ったものから抜け出る」

 

一人遊び!!

何の問題もない!!

 

腰が抜けそうなあっけなさに、笑ってしまった。

 

その時である。

 

急に目の前に、目に見えないはずのとてつもなく大きな何かが、方向転換する様が「観えた」。

そしてそれを通して、虚空の意志の全容(これもまだ部分ではあるだろうが、とりあえずこの(たび)の変化の全容)が理解できた。

 

虚空ははっきりと、十分にやりきった古い遊びをやめることにした。
で、エゴブレーキをかけた。

 

だがすごい速度で動かしていた為、完全にとまるまで少し動いてしまう。


その少し動いてるところが、2016を含むこの時期の「今」なのだ。

キキキ…とブレーキがかかる今の、でとまろうが、キキでとまろうが、キキでとまろうが、関係ないだろう。

 

とまるんだから。


100年なのか10年なのか1年なのか、それもどうでもいい。

 

とまるんだから。


もう決定事項なのだ。

 

そのとき不意に『オリオン座はすでに消えている?』というタイトルの本があったことを思い出した。

 


 ありありと輝いているものも、実は既に終わったものの残像だったりするのだと。

 

オリオン座に(もちろん他の星座にも)特段の思い入れはないが、何故だかその「消えている?」ことに深く感謝した。

 

このキキキを実感してから、何かを思い煩うことや先の先を見通そうとすることの意味が本当に理解出来なくなってしまった。

水が無い場所で泳げと言われている感じで、

 

 

 

「無理っス!!!」

 

で、終わる。

 

そりゃ気楽にも愉快にもなろうというものだ。
そんなわけで日々、面白おかしく過ごしている。

 

 

エゴも星座も、
見えるうちに見ておこう。

(2016/12/15)

次週は火・水・木の3日間更新です。