フワッとした口当たりの題材ですが、えらいこと長くなりました。

 

誠にあいすみませんが、週末の手が空かれた折など活用して頂き、皆様それぞれに良い塩梅になさってご覧下さい。

 

週明けの記事は、なるたけあっさりと仕上げます。

 

では記事へ。

 

 

 

 《金の斧 銀の斧》

 

 

木を伐る仕事に夢中になって、うっかり斧を手から滑らせ、水の中に落としてしまった正直な木こり。

水から出て来た不思議な存在「お前の落としたのはこの金の斧か」と尋ねられて違うと答え、「ではこの銀の斧か」とも言われるが、やはり違うと答える。

 


「それではこの鉄の斧か」と尋ねられ、それが元々持っていた斧だったので「そうです」と言うと、相手は木こりの正直さを褒め讃えて、金の斧も銀の斧も、元の斧と一緒にくれましたとさ。

そんなお話。

イソップ寓話に収められているこの物語。


おむすびころりん的に、「正直な木こりを途中まで真似たのに、をついて金の斧を貰おうとした為に元の斧まで失う男の話」でオチがついている。

 


調べてみて面白かったのが、斧を持って水から現われるのが、女神だったり、蝶の羽がついた妖精だったり、金ぴかに着飾った神だったり、仙人みたいな感じだったり、物凄く自由であること。

多分水の精なんだろうが、「滴そのものみたいな何か」バージョンもある。

 


木こりの方も、色んな状態に。


何かもう、ビーバーが探偵やってるかの様な謎の生き物まで居た。

 

人間ですらないし、しかも一番訳分からないタイプの何かと絡んでいる。

 


水場も池とか湖とか色々で、こんなフワッとした話だったのかと驚いた。


題名も様々。「正直な木こり」とか「金の斧 銀の斧」又は単に、「金の斧」と呼ばれたりしている。 

イソップ(アイソーポス)が書いたバージョンだと、木こりが斧を落としたのは湖や池ではなく「川」


拾ってくれたのは女神や妖精じゃなく「ヘルメス」である。

 

フレディ・マーキュリー似の木こりと、若手のお笑い芸人みたいなヘルメス。

ありがたい教えというより、世間話でもしてそうな雰囲気だ。

 

「ヘルメス」は旅や商業、発明etc百貨店みたいに何でもありなギリシャの神を表す一方で、錬金術の始祖と言われた神の名でもある。

ヘルメスが、流れる「水」の中からとって来た「金」の斧とは、魔法による創造を象徴している。

ちなみに金だけでなく「銀」も大切。錬金術において水銀は重要な象徴だからだ。

 

 

金の斧も銀の斧も、単なる世俗の豪勢な財宝には収まらない。

ヘルメスが差し出した、燦然と輝きを放つ見たこともない様な宝を、受け取るのに必要なことは何か。
それは物語の中に書いてある。

ヘルメスは、まあ女神でも妖精でもかまやしないが、その者は一体、何と尋ねたか。

「お前の・落とした・斧は・これか?」

差し出された金の斧がどれだけ眩しく光ろうが、相手は「落としたのがこれなのか」と尋ねている訳で、それに対する答は当たり前にNOである。

 


「そうは言っても正直欲しいじゃない、金の斧」

「生き馬の目を抜く現代では上手いことやらなきゃ。正直者は馬鹿を見るんだよ」

「千載一遇の機会を逃すことこそ、全一の流れに乗っていないんじゃない」

エゴまみれの者達は、こんな発想になるだろうか。

“とにかく欲しい金の斧”的なスタンスでエゴを使ってこねくり出せば、尤もらしい言い訳は山と積み上がる。

上手いこと金の斧を頂戴しようとする相手が、水から出て来た王とか庄屋とか社長あたりだったら、そんなエゴ遊びに付き合ってくれたかも知れない。

 


だが、何せ相手は水から出て来た人智を超えるものである。

もし自らの欲望に正直でありたいのなら、

「落としたのは鉄の斧なんすけど、

それ見ちゃうと金良いなって、なりました。

凄い欲しいんで金、頂けませんかね?」

これが本当の正直じゃないだろうか。
 

 

この物語は別に金の斧を欲しがるな、と教えるものではない。

 

欲しけりゃ欲しい気持ちについても、質問に対する後で言えば良いだけだ。

そうすることで「神を騙そうとする」と言う、一番阿呆みたいなリスクは負わなくて良くなる。

不覚は青春なので、「そんなリスクも敢えて負ってみたい!」なら、勿論止めはしない。

 


今時、石のお金をゴロゴロ転がして歩いている位、トンチンカンなことではあるし、変容の時代には青春と心中”コースになるが、それも自由だ。


物語の木こりは、「尋ねられた用件についてそのまま答えた」正直者。


只、もし金銀の斧について「要る・要らない」の判断を挟んだとしても、木こりが“本物の木こり”であったなら、金も銀も欲しくなかったはずである。

金も銀も重いし、木を伐るには柔過ぎるから。


本物の木こりとは、木を伐る仕事を愛している木こりのことだ。

斧を転売して大金を手にしたり、展示して拝観料を集めたり出来れば、もう木は伐れなくともいいのだ、となるならそれは本物の木こりではない。

質問の答を通して、本物の木こりっぷりを神に披露することで、も勝手について来る。

生きるとは、そう言うことである。

 


この話を眺めていて、気がついたことがある。

世人の多くは、「即座にガブッと金の斧となることは少ないかも知れない。

だが、恥じらいつつ、周囲を横目で見つつ、聞き耳を立てつつも、

欲しがってや

いないだろうか。
銀の斧

金の斧には気後れもあるし、やっかみへの恐れもあり、容易に手が出なかったとしても、を一回見送ってからのについては

 

 

いや〜、そこまで言われちゃうとね、

折角だし?

受け取れってことかも知れないし?

逆に失礼かも知れないしね?

何て言うか、その辺、忖度???」


となりゃしないかと言う話。

人じゃあるまいし、神は「銀の斧?」を外の皮に、「受け取って!」等何か別の思惑を中の餡子にして、言葉饅頭を作ったりしない。

 


言ってるのが「では、お前の落としたのはこの銀の斧か?」なら、必要な返事は落としたのが銀の斧かどうか以外の所にはない。

そして、はさすがにまずいけど、銀位なら頂いちゃってもいいっしょ」と言った変な話は、不覚の人対人の間でしか通らない。

人も本来は神なので、こうしたことを通そうとする時、何処かコソコソするし、常に心配が付いて回る。

心配の発生は、本道から外れていると教えてくれるアラームでもある。



『金の斧 銀の斧』は、

 


神からの問いかけを、思惑で編集せずに直で丸まま受け取ることの大切さ

そして、

控えめに見える我欲ならついつい出していないかを確認することの必要性

更には


何はなくとも木を伐る(=気を用いて場を切り開く)ことを最重要とする

そうすれば、摩訶不思議な力も必要に応じて勝手に発揮される。

そうした数々の深いメッセージに溢れる物語なのだ。

 

誠に応える、水の力。

(2019/2/21)