《神の塩》
「世間で神が親しみやすくなってる」と言う趣旨のニュースを先日読み、「成る程なぁ」となった。
世に言う「神対応」についての話で、神に対する印象が「目に見ることの出来ない絶対的な創造主・観察者」から「その時その時で目立っていい感じの状態にあるか、目立っていい感じのことをした人物」まで含める様に、変化しているらしい。
神対応の一体何を“神”と言って居るのかから、不覚者へ持つ「神のイメージ」を洗い出すことが出来る。
観察してみると、
すばやく
さり気なく
度量広く
思いやり深く
親切なことをする
存在を“神”と言っている。
これが“神対応の神”である。
「対応」を抜いて「神!神!」とだけ言われる“神”も居て、こちらの尊称は「素晴らしい作品や、スポーツでのプレー、成績等、常人には成し得ない様な成果」を、「努力だけでは何ともならない部分も加えた上で成した」人物に贈られる。
神がかった才能。
神がかったタイミング。
この「何ともならない部分」に人心は惹き付けられる。
「神!神!」神より神対応神の方が、優しさ等の善性を前面に押し出しているのは「神に優しく対応されたい・もてなされたい」と言う人々の欲求があるから。
神対応と聞いて、誰も「祟り神対応」はイメージしない。
都合良く歪められた、言わば矮化神が神対応神なのだ。
実が収穫しやすい様、樹木を矮小化するように、現代生活に合ったアイテムとして神をも矮小化する。
エゴの欲望は際限が無い。
そんな神対応の対極にある態度は、塩対応と呼ばれている。
塩の対極にある神が「甘い」ことの証になっている。
厳しい、素っ気ない、不親切、冷たい。
これらの要素で押し進められる対応を塩対応と不覚社会は呼び、揶揄したり、珍味扱いして逆に塩気を喜んだりしている。
あちこち甘さで溢れ返るとその甘さにも飽きる訳で、「スイカに塩対応」みたいな活用の仕方を試みているのだろう。
塩は甘さに飽きた時にだけ必要なものではない。
料理には砂糖以上に欠かせない。
西洋の昔話にも、自分の父親を塩になぞらえて城をおん出された王女が居たが、塩のない料理の味気なさから塩の大切さに気がついた王に赦しを請われて、その話はハッピーエンドとなった。
貴重さが増して、塩を黄金の様に扱う時代もあった。
神社も寺も清めに塩を使うし、地表の七割でチャプチャプしている海水から塩が消えたなら、一体どうなるか見当もつかない。
おそらくは、世界から猫が消える以上の変化が起きる。
世界どころか土俵から塩が消えただけで、かなりの騒ぎになるだろう。
ほぼ魔法。
それ程、塩はこの星や人型生命体の成り立ちに深く関わっている。
潮も汐もシオと読む。
朝も夕も、共に在る当たり前の存在で、食塩も湯水の様に精製出来る様になった2017では、もう感謝などしなくても良いことになっているのかも知れない。
当宮にお越しのグッドセンスな皆様には今さら申し上げることも無いだろうが、神と塩とを分けないことだ。
全てに神性が宿る。
当然に塩も神なのだ。
当宮にお越しになられる皆様の中で、連絡先をご存知の方からメールを頂戴することがある。
その中で一度、内容が明らかに「既に決まっている欲しい対応」を匂わせるものだったことがある。
返信しようとすると、指が一向に動かない。
何か文字を打ち込もうとしても、少しでも相手の意を汲むとパツッ・パツッと集中を切断されて、さっぱり進まない。
どうにかごく短い文を送り、それから上に問うと「神の塩対応」と言われた。
欲しがられている言葉で、もてなしをするつもりはさらさら無かったが、欲しがっているものがあると指摘することも必要ない、と言う。
只々、手を出さず「放っとけ」と。
『「叱るか褒めるかして欲しい」
「厳しくした後、優しくして欲しい」
「敵か味方になって欲しい」
そうした欲求に応えると、求めた方の意識はテンションアップとダウンの間をゆらゆらするだけで、ちっとも進まない。
そのままにして、勝手に揺れが収まったものは先に進むし、そうでないものは沈まぬ為に適当な藁を掴みに行く。
どちらの邪魔もしないことだ。 』
と、伝わり
「返事に指がさっぱり動かなかったのは、そういうことだったのか」と感心した。
甘いだけの偽神と、必要に応じて平気で塩も振って来る上の面々とでは、器がまるで違う。
その在り方に触れ、一層中立に、的確に、全体に則して働いて行こうと、上の背を見て誓った次第である。
神の振る塩も又、神。
(2017/9/18)