《活かす神》
さて本日記事では八百万の神々の中で、思うことを役割とするオモイカネの思い方について書かせて頂く。
天岩戸開きで行われたことを今一度振り返って見てみると、
鳥の鳴き声による開会
必要アイテムの準備
神意の確認
舞台の設営
ダンスとリアクション
言問いと応答(隙間作っての覗き見)
日神出現(半開き)
力添えによる生み成し(全開へ)
明と暗の線引き(開きっ放し)
こんな感じとなる。
( )内は岩戸の状態である。
注連縄をアマテラスの後方に引き渡したとされるのみで、岩戸を閉めたと書かれてはいない。
戸は開きっ放しであって、明と暗が線引きにより彼方此方に分かれつつ、同時に存在している状態で終わっているのが面白い。
鳥の鳴く声で開会を明らかにした後、チーム岩戸開きはまず材料を集めて鏡と玉の作製に入っている。
その後に、神意を占う。
神頼みスタイルの人間的なやり方なら、何を置いてもまず占う方が先なのではないだろうか。
占いによって「鏡と玉で間違いねぇ!」みたいな確信を得てから実行に入ろうとする。
だから神意を受け取ってるぞとする人は重要視される。
何故なら人間は間違えるのが嫌いだし恐いし、中でも儀式は「間違っちゃ絶対いかんもの」となるから。
殊に太陽復活なんて一大事においては尚更であろう。
だが、嫌悪や恐怖はモノコトを歪めて伝える。
嫌悪と恐怖どちらも個の都合から生まれた震えであり、意識を波立たせる。
オモイカネは鏡と玉についてその必要性を理解していたので、開会の後直ぐにそれを作ることを進めた。
そして輝くものである玉と、輝きを映すものである鏡を活かす、只今の流れに沿う道を裏取りする意味で占いを盛り込んだ。
「うらない」は絶対間違ってないもの教えてちょーだいではなく、有が無から意を聴くことで合一を果たして行動する為のものである。
「我が計略に死角なし!」と、うらをないことにするものではない。
オモイカネがもし、こんな風に思ったらどうなっていただろうか?
これが一番いい方法なのかなぁ。
思った通りに行かなかったらどうしようかなぁ。
思いの神である私が思ったことで失敗なんてしたらクビになるなかぁ。
上手く行かなかった時は、こうしたらいいかなぁ。
あの神を目立たせたら、喜ばれるかなぁ。
上手く行ったらみんな褒めてくれるかなぁ。
私への評価、上がるかなぁ。
これらはどれも、我を通そうとする思い方である。
そうした思いにも別に良い悪いはないが、一つ言えるのはこれを、
何週思い巡らそうと、明確な答は出ない
と言うこと。
人間はプランを磨いたり充実させたりする以外に、よくこうした傾きのある思い巡らしをする。
それは大抵、実行に移す踏ん切りがつくまでの時間稼ぎである。
現実を見る力が弱まっていると、逆に「思いを巡らしているだけで何かやった気になれる」現実逃避力がアップする。
この場合は生命力がそれを支えきれなくなって尽きるまでオモイカネごっこを続けたりする。
人は常に力を使っている。力の向きが違っているだけであり、無力と言うのは本来ない。
オモイカネの思い方を一言で表すなら、天意により万を活かす思い方。
オモイカネの思いに、個の都合が挟まっていないことは、
プロセスの中に己の得を盛り込んでいない。
それぞれの神の役割を活かしている。
アマテラスの自由意志を無視していない。
こうした点からも明らかとなっている。
「賑やかして誘き出して引っ張り出しなんて騙し討ちじゃないか」
そんな風に見る者もあるかも知れない。
そうした人々はアマテラスが「自らの好奇心で半身を乗り出した」点を、ちゃんと観ていない。
自ら奇妙に感じ、
自ら問いかけ、
自ら応答を聞き、
自ら益々奇妙に感じ、
やがて自らで戸より、
身を乗り出す。
そこでようやく、
タジカラオの出番となる。
このシンプルな出来事の運びから目を背け、「え~、自ら自らって言うけどぉ!こんな時こそ必殺!自他はな~い!!」とするなら 、意識の目隠しが外れることはない。
自由意志を無視した計画は、これまで随分不覚社会でまかり通って来た。
変容の時代には、どんどんそれらはポシャり易くなっている。
割と容易く露呈し、綻び、破綻し、暗礁に乗り上げる。
全体を活かさぬ我良しの思いも、するのは勿論自由。
だが、全く以てお勧めは出来ない。
活なき思に、道は開けぬ。
(2022/5/5)