どうにも途中で切れずに、長くなりました。
あいすみませんが、飽きない程度に適当に区切るなどなさって頂き、皆様それぞれに良い塩梅でご覧下さい。
来週の更新は火・金になります。
では記事へ。
《愛に名を?》
出先で食事をとりながら手帳を眺めていたある日の午後、店に流れる音楽が突然意識に飛び込んで来た。
集中している時は、周りで何が鳴っていようとそれを追いかけたりはしない。
それなのに、何でか意識がグイっとそちらに向けられる時、大体そこに“何か埋まっている”。
(「えぇ~!おいおい」)
と、内心ちょっと驚いた。
と言うのも、その時に宮司が眺めていた手帳は
了解してた仕事
追加の仕事
更なる無茶振り
が混在する、もう訳の分からない状態だったからである。
マジかよとなりつつ、曲のことを調べようとしてハッとなった。
どこかで聴いたことはあるが誰の何なのか、分からない。
適当にラジオでも…、とかではなく明らかに80年代の洋楽ばかり選んで流している店なので、店の人に尋ねようとしたら、曲が終わってしまった。
ついでに混んで来たので、聞きそびれたまま店を出た。
しゃーない、この球は見送りかなとなりながら、一応適当に「80年代」「ロック」等で音楽配信のプレイリストを検索したら、二つ目のリストで
最初の曲として出て来た。
あっさり見つかり過ぎだろう。
「何だ、カップヌードルの曲か」
と、納得。
恋のことから麺のことに歌詞を替えて、この曲がCMに使われたことがある。
不覚時代から、この人々の音楽に触れる機会はおよそなかったし、カップヌードルも食べる機会はあまりなかった為、聴いても初めは全く分からなかった。
食べたことはあるが印象が薄い。
一つ目のリストでも、重要な別の曲に二つ程出会った。
採れ過ぎである。
上は手帳の文字嵐を見ていないのだろうか。
当たり前だが、完全に人間の感覚でやっていない。
毒に関する歴史と、妖怪絵巻の間にBon Joviを放り込んで来た。
人の心があったなら、
およそやりようがないことである。
何でこんな時期に投げ入れて来たのかは分からないが、歌詞を読んで何でこの曲を放ったのかはすぐに分かった。
タイトルにもなった
You give love, a bad name
の部分。
何て言うか、時代?
魅力的だが不実な女に騙されたらしき坊やが歌う、嘆きつつ詰りつつ何気に未練がましい内容。
皮肉だとしてもダーリンとか言っているし。
そんな枝葉は省いて、上から放って来られた理由として「これだ」と感じたのが、お前が見せたもんなんて愛じゃねえぞの意味を込めて「愛に汚名を着せる」と言う表現を選んだ、珍妙な感性。
愛に汚名を着せると言うなら、当然着ていないありのままの愛もあるはず。
ところがそれがどうも、「好いた相手を裏切らない」位のものなのだ。
それも、別に愛じゃない。
既に幾度も申し上げている通り、愛は対象を選んで発せられるものではない。
人型生命体の神なる本能として、内から外に向けて自然に溢れ出し、流れ出す場所も選ばずに広がって行く。
説明のつかない、何とも言えないあたたかさと満ち足りる感覚。
広がった先だけでなく、愛を送った本人のことも活き活きさせる。
これが愛だ。
この放出が普通になって、その上で敢えて「向かい合う一人の瞳に世界を観る」なら、恋愛の弥栄も成るだろう。
それはもう、大変に喜ばしいことである。
宮司も、そのナイス弥栄カップルの祝福をする意志もあって物理次元にやって来ている。
「やったぜ!」とならない訳がない。
だからこそ尚更、愛に汚名を着せるだの着せないだのの問答は、奇妙に映る。
着るだってないのに、『You Give Love a Bad Name』の邦題は、更に『禁じられた愛』とか言う変てこなものになっている。
愛は何も着ないし、着せないし、禁じないし、禁じられない。
水を縛ったり、お洒落させたり出来ないのと同じだ。
今更、怒ったりなんぞしやしないが、愛をさっぱり分かってないのだなと確認しつつ、映像で観てみて大笑いした。
攻撃的で、恨みがましく、未練も混ぜて甘く味付け。
とても笑顔で歌えそうもない歌詞を、
めちゃ楽しそうに、
文字通り謳歌。
ご覧下さい、この笑顔。
ステージの上に限らず、観客も又、笑ったりして楽しそうだ。
これだよ、と頷いた。
不覚状態の端末達も、本当は皆悲しみは必ず悲しまなくていいし、怒りも必ず怒らなくていい、と分かっているのだ。
怒りも悲しみも、苦しみだって楽しんでいい。
それを分かり易く実現出来るのが、歌の世界である。
歌詞が見たい方はこちらで確認。
「このアマ!」「でも好き!」みたいな喧しい心情を、笑顔で歌うことが出来る。
逞しきこと、キャバ嬢の如し。
そんな彼ら全員を、全母は静かに天意で観察している。
天意はどこにでも流れているし、全体に満ちている。
不実な悪女のことも、お嘆きの坊やのことも、それ以外の全ても、どれも分け隔てなく慈しんでいる。
それが天意であり、その天意に感謝で応えるのが愛なのだ。
名が定まるなら、愛ではない。
(2019/9/12)