《分かるということ》
“ねらった大穴 見事にはずれ
頭かっと来て 最終レース
気がつきゃ ボーナスァ
すっからかんのカラカラ
馬で金もうけ した奴ぁないよ”
分かっちゃいるけど
やめられないなら、
実際何も
分かっていない。
そもそも分かるとはどう言うことかを、不覚社会は未だ分かっていない。
その為、本日記事では改めて、「分かる」とは何かについて書かせて頂くこととなった。
真に分かった時点で、「やめられない」事態は起きない。
分かる、とは「する・しない、から自由になる」まで行って初めて成る状態だからだ。
するしないもないし、ましてやめるやめられないもない。
分かるとは意識の力、もっとはっきり言えば、「心がけの力を借りない状態まで達する」ことである。
呼吸してるって分かっちゃいるけど、いつもはそれを忘れてる。
そんな者は幾らも居る。
だが、忘れた為に呼吸が止まることはない。
もし止まってたら、幾らグッドセンスな皆様であっても今そこにいらっしゃらない。
どっかしらで呼吸し忘れて、世をお去りになっている。
前に挙げたスーダラ節は、「分かんないまま突き進まなければならなかった時代」の意識達を、元気づけようとそっと寄り添った歌である。
これはこれで、あの時代に贈られた愛の現れであったのだ。
歌っている人物は、曲の中で描かれる男とはかけ離れた、大変に真面目な性格であったと言われている。
何しろ「こんな不真面目な歌を歌っていいものかどうか」を悩んで父親に尋ねたそうで、僧侶でもあった父に
「『分かっちゃいるけどやめられない』は人間の業を示し、そこも含めた全肯定は親鸞の教えにも通じるから、素晴らしい」
と励まされ、やっと歌うことに納得した。
ちなみに詞を作ったのは歌った彼ではなく、昭和期を代表するばあさん的存在でもあったこちらの人物。
ばあさんのついでに、と言うともののはずみの様だが、後に知事もしている。
振れ幅の大きな不覚活動を、相当にエンジョイした存在と言える。
この曲を必要とした時代にはそれなりの理由があって、その前にあった「イケイケドンドンな神風状態から、国全体で負ける」と言うビッグイベントを体験したことを踏まえている。
負けて意識達がペシャンコになったところから次第に回復しつつも
「それでも何かに勝たなければならない」
「そして今度は負けてはならない」
と、舵を大分傾けてとっていた。
政治に経済に文化に、勝つ為にモーレツに頑張る世の中。
だが、年がら年中そんな勢いで居られる訳もなく、気晴らしもしたくなる。
張りつめた意識の緊張を緩めるものが必要になる。
その一つがこの曲なのだ。
頑張り暮らしの中に「分かっちゃいるけど」を挟んで息抜きする。
あの時代の端末達はそうして体験を積み上げて来た。
積み上げた成果が相互に機能して全体がほどほど豊かになり、やがてそんなに頑張らなくても良い気配が満ちた。
勝ちの舞台は、次第に個人的なものに移り変わる。
「国の勝ち」が会社等の「部分集団の勝ち」まで細かくなり、更に「個人的勝ち」にバラけた。
そしてどれも「勝ちきれはしない」ことが明らかになった。
「勝ちきれない」ので下ってみようと又、マイナスにチャレンジしたのがバブル崩壊とそれに連なる不況。
どの国の人々もそれぞれにチャレンジャーだが、日本と呼ばれるこの国の人々は相当に色んなチャレンジをした。
失敗も成功も余す所なく存分に。
そしてやっと迎えたのが変容の時代である。
一応申し上げておくと「時代」と違って、進化変容と「世代」は関係がない。
前の時代、とは申し上げるが、前の世代とは言わない。
年齢数字は目印に過ぎず、これから目を覚ます方々は、あらゆる年齢数字から現われる。
前時代が様々なチャレンジを通じて不覚の限界を身を以て示し、それを体験し終えてくれた。
彼らが成したことの焼き直しではない新体験を捧げることが、本当の意味で彼らに感謝することとなるのだ。
まずは正直に。
(2018/8/6)