《与え作りて》
“与作は木をきる
ヘイヘイホー ヘイヘイホー
こだまは かえるよ
ヘイヘイホー ヘイヘイホー
女房ははたを織る
トントントン トントントン
気だてのいい嫁だよ
トントントン トントントン
与作 与作 もう日が暮れる
与作 与作 女房が呼んでいる
ホーホー ホーホー
藁ぶき屋根には
ヘイヘイホー ヘイヘイホー
星くずが 降るよ
ヘイヘイホー ヘイヘイホー
女房は藁を打つ
トントントン トントントン
働きものだよ
トントントン トントントン
与作 与作 もう夜が明ける
与作 与作 お山が呼んでいる
ホーホー ホーホー”
上から響いたこの曲を、通して聴いてみて、
「へぇ~!不っ思議な歌~」
と、唸った。
そう言えばヨサクとヤサカ、音も似ている。
そこから不意に、木を切る与作は、意志&宣言によって物理次元の気を切る、分割意識の象徴だと気づいた。
弥栄に向かうか、我欲に向かうか。
意識の状態、意志、宣言によって気の切られ方は変わる。
与作はそれを実に爽やかに行っている。
歌の中に与作の言葉は綴られていないけれど、歌う者の晴れ晴れした調子から、その爽やかさは自然伝わってくる。
サブちゃんバージョンが有名だが、千昌夫バージョンもあり、これも晴れ晴れしている。
おそらく市井のお父さん方がカラオケで歌っても晴れ晴れしている。
と言うか、どなたが歌っても晴れ渡る。
弘法は筆を選ばずの逆で、『与作』の本質は歌う者を選ばずに放出される。
歌詞の世界に話を戻す。
分割意識の切った気を、「トントントン」と織り上げて物理次元上に具現化するのが、織り姫である御神体。
「気立てのいい」とは、気を素直に具現化出来る様子を言っている。
この様にして、分割意識&御神体の共同作業が楽しまれるのが、分神である人型生命体本来の動き。
分割意識も御神体も仕事を楽しみつつ、それを全母に捧げている。
十分に日中の仕事を楽しみ、夜になれば与作は藁葺き屋根に降る星を眺める。
女房は屋根にあるのと同じ藁を又、「トントントン」と打つ。
藁は中が空洞になっている。
中空な藁で出来た屋根の下で与作が星の瞬きを眺める様に、睡眠状態にある分割意識はそのさなかで命の点滅を観ている。
一日切った気のデータを洗い流し、まっさらな状態にする為に。
与作の女房が藁を打つ様に、御神体も全母である内なる虚空に向かって振動を送り、響かせている。
分割意識が持ち帰った様々な気が、固定化されて残ることなく、虚空に捧げられて再び新生するように。
響かせることで、送り出しているのだ。
こうして真新しい一日が始まる。
夜が明けると、与作をお山が呼ぶ。
彼が切り出す木は、彼が生んだものでなく、母なるお山がふんだんに与えてくれるものである。
丁度、分割意識&御神体の分神が物理次元の次の場面を「どんな風に切り出すことも出来る」ように、全ての可能性を全母が提供しているのと同じ。
与作は木の一本、葉の一枚、無から生み出すことは出来ない。
分割意識も御神体の支え無くして、そもそも全母からの天意による提供無くして、何一つ具現化出来ない。
そのことを知らない、と言うか認めないのは不覚の分割意識達だけで、与作も、目覚めた意識も、ちゃんとわきまえている。
わきまえているからこそ、己の仕事を全う出来るのだ。
何故なら、個別にある「分」をわきまえるのと同時に、
自らが供給元の全母でもある
このことを分かっているから。
全母の観点が意識にない子供の視点のみだと、どうしても「やらされてる感」が発生し、他の子に比べて「恵まれているか」どうかばかりが気にかかる様になる。
「こんなに頑張った」ことを褒めても貰いたがる。
あらゆる苦悩と苦闘の原因は、全母としての観点の欠落にある。
与作は自らが、
山であることも
知っている。
全ては同じ、一体のものであると言うこと。
ここが腑に落ちていると、シンプルに切る仕事に邁進し、それが終われば爽やかに女房の元に帰ることが出来る。
与え作りて
世を開く。
与作の納得度合いがあればこそ、こんなにも清々しく響く弥栄の歌となるのだ。
気持ちよく、愛で切ろう。
(2018/7/19)