《いつか王子様が?》
素敵な結婚相手から、目覚め悟りの瞬間まで。
嬉しい来訪を「ゲットだぜ」と行きたい折に、果報は寝て待てスタイルのアプローチを試みる者は多い。
「それをするのではなく、ただそれが起こるのです」
こんな報告を覚醒に関して頂戴すれば尚更。
お行儀良く両手を胸の上で組んで、王子様が来てくれた時に印象がいいだろう可愛らしい寝息をスースーさせることに夢中になる人々が出るのも、まあ分からなくもない。
しかし、お察しの通り無駄である。
先の「ただそれが起こる」にふさわしい状態に自身を進化させておかなければ、いつまでたっても「それが起こる」ことはない。
空が落ちて来ないのと同じように、当たり前に起こらない。
必要なのは、画策したり装ったりかき集めるのではなく、ただ質を上げ、素地を整えること。
意識の静寂を保ち、ともすれば聴き逃してしまいそうな微かな歌声をキャッチすることは、質の底上げに確実に貢献する。
『いつか王子様が』は、ディズニー映画で白雪姫が七人の小人に向かって歌う、王子の来訪を予告する歌。
不覚時代の宮司はこの曲に、寝ながら相手を呼びつける「怠け女の免罪符」という印象を持ち、大人になりたくはなく特別な存在ではありたい「姫様根性」の発露として、ダサイおもちゃ扱いしていた。
だが目を覚まして、より深く意識を澄ませ静かに対峙することで初めて、この曲の奥にひそむ真実が観えて来た。
白雪姫とは、発揮される用意が既に整っている「御神体の真価」の象徴。
新雪の様にまっ白まっさらであり、瞬間瞬間、どんな色にも染まることが出来る。
7人の小人は、7つの体の象徴である。
「小人」という姿で、背が足りない・全体に足りない、つまり「単独にして一部分であること」を表現している。
ディズニーが味付けする前の『白雪姫』だと、小人たちには年齢や性格の描写はなく、「7」という人数だけが明かされている程度。
物語の筋にもあまり関わってこない。
『いつか王子様が』は、真価が7つの体達に向かって、共に生きる伴侶である王子=分割意識の来訪を恋うる歌だったのだ。
人型生命体の活動においてはご承知の通り、分割意識が男性性、御神体が女性性を担当している。
不覚社会の中で、素敵な結婚相手に代表される「目に見える欲しいもの」や、目覚めや悟りに代表される「目に見えない欲しいもの」を求めて、それが外から迎えに来てくれるのを待ち、ねんねして目を閉じているのは、分割意識と御神体のどちらだろうか。
いつか王子様が。
って、王子様が?
城に引っこんで寝っぱなしの王子をご想像になれば、事態の間抜けさがご理解頂けるだろう。
ところでお話の中の王子は、どんな感じで白雪姫に出会っただろうか。
森を歩いてて、不意に。
「嫁 美人」とか「運命の出会い」とかで検索かけて、ナビ見て到着した訳ではない。
「何の気なしにしてみたいこと」に注意を払って頂きたい理由はそこにある。
ほんの微かな、取るに足らないと思われる出来事の中に、歓びの種は眠っているのだ。
本物のお姫様はお高くとまってやしないので、マッキンリーの頂上まで行かなくとも大丈夫である。
但し、万物の創造主全母の子である者=「王子」として歩いて頂かなければ白雪姫は見つからない。
エゴを満たす連れて歩くのに良い女を求める程度に収まって、意識がその辺の兄ちゃんのままでは、草の根分けたって「姫」に出会うことはない。
同じものが引き合うとは、そういうことだ。
曲の歌詞は、こんな風に締めくくられている。
「とこしえの 愛の鐘が 鳴りわたるでしょう」
愛の鐘とは分割意識の働きと御神体の働きとを結び合わせている、中心の鼓動のこと。
既に鳴ってはいるが、真価が発揮されれば鳴るだけでなく全宇宙に鳴りわたる。
それが最も素敵な、永遠のウェディング・ベルとなるのだ。
歓びで鳴りわたらせよう。
(2017/2/6)