《あきをみつける》
「季節ったってなぁ。うわ〜」
全体一つと言っても、宮司を名乗る“これ”は平生「しんみりしたもの」に対して、とんとノリが悪い。
共感も同情も発生しないし、何というか只もう
「お好きですね」
とか、「うわ〜」位しか言うことがない。
そんなこんなで旬は旬だが、当初「うわ〜」となったのがこの作品。
しかし、聴いてみるうちに、気づきと共に印象が変わって来た。
“誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた”
何をどうみつけたのか。
秋がちいさいってどう言うことなのか。
「そもそも…誰かさんって、誰」
腕組みしたまま首を捻る。
謎だらけ。
しんみりに興味はないが、謎は別腹となる。
急にやる気が出てこの曲の、暗号の様な歌詞に目を凝らした。
すると、中から浮かび上がって来たのが、
“めかくし鬼さん 手のなる方へ”
“うつろな目の色 とかしたミルク”
“ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ”
1、2、3番それぞれに表現は違うものの、共通して描かれているのが
感覚の曖昧さ
ぼんやりとした、実体を掴み切れない様子があり、もどかしさと言うより、どこか諦めている様な気配もある。
悲しさには、引き裂かれる様な驚きが見えるが、
哀しさとは、諦めに裏打ちされたものなのかも知れない。
そこに寂しさが漂う。
霧に包まれた様に曖昧な寂しさを観察していて、共感ゼロのまま、ピンと来るものがあった。
この謎めいた詩を書いたサトウハチローは、父親の女性関係のとっ散らかりから、少年期に両親が離婚。
母は家を出て、ハチローも父に反発し中学を中退。
親に勘当され、度々警察のご厄介になり、留置場から島まで色んなとこ送りになったりと結構ワイルドに忙しく過ごす。
送られ先の自然豊かな小笠原諸島父島で、父の弟子だった詩人と暮らしたハチローは、その影響で心機一転。
西条八十に弟子入りし、自らも詩人として歩み始める。
人生を漂流していた腕白時代のハチロー(どれかは不明)。
サトウハチローについては、これまで特に興味が湧かず、「和のメルヘン人材」位の印象しかなかった。
こうしてみると、不良少年時代に培った身にしみる孤独と、寄る辺ない哀しみ、そして説明し得ない「何故だ!」の感覚が、表現者としてのハチローを支えたのが分かる。
ちょっと良いこと言いたい程度の出発で、2万を超える作品を遺したりはしない。
その中でも「母」にテーマをした詩は数多く、そして有名でもある。
興味深いのが、決してハチローは実母に情の愛を注いでいた訳ではないらしい点だ。
素直になれない、と言うのもあったかも知れないが、本人も作中の「母」は彼の空想による産物であるとしている。
彼自身、どこまで気がついていたかは分からない。
それでもハチローが書いた幾千もの母の詩は、肉の母を超える全てのものの母なる存在、全母へ捧げられている。
全母に意識を向ける時、
そして表層意識は何に問うてるのか分からないままでも、
個を超えた奥底から、
「何故だ!」が発生する時。
不覚に在っても、人は驚くべき力を発揮するからだ。
詩の中の誰かさんはサトウハチロー自身であるとも言われるが、自らを含めた全ての「寂しい子(=個)」の姿を描いている様に感じる。
「あき」は「秋」の他に、「空」の字もあてられる。
内へと発した「何故だ!」は、「母よ!」でもある。
その問いを頼りに、ハチローは、ちいさい秋のその奥に、ちいさい空をみつけた。
点滅の、滅。
そこに真の母の気配があることに気づくが、決してそれに触れることは出来ない。
母と子が一体となる前の、曖昧な哀しさ。
その中での微かな発見。
『ちいさい秋みつけた』には不覚のあてどない“母恋し”が、覆われたまま手をのばす切なさと共に、ほのかに輝いている。
わずかなすきから、空の風。
(2018/10/29)
10月のふろく 《秋を見つけるメモ》
ともあれ、既に変容の時代が来ている。
今の今に在る者達は、ハチロー仕事に感謝をしつつ先へ進むことが必要となる。
そんな訳で、ちいさくて愉快な秋を発見したら、それらを記録する用のメモをご紹介する。
全母は寂しいと哀しみに泣く子にだけ向けて、手を広げて迎える訳ではない。
肉の母と違い、万物に惜しみなく天意を注いでいる。
愉快でちいさな秋も見つけられる。
むしろそちらの方が、自然に見つけられる。
勿論、もの哀しく、寂しい秋について書いても構わない。
自由に「意識にそっと触れて来る、ちいさな何か」を見つけたらそれについて記されること。
そして、「みつけたものの、どの辺りに秋を感じたのか」を、添えて書かれると、空の風と共に通り過ぎるばかりだった微かな感覚が、文字のかたちをとって現われる。
楽しんでお試し頂ければ、ちいさな秋が紙の上で踊る。