《自由と不自由》
人が「好きにさせてくれ」と思う時、そこには「そうさせてくれない相手」が想定されている。
人が「自由を獲得する」と言う時、そこには「得られていない状態」が想定されている。
獲得するではなく、「自由を取り戻す」であるなら、「自由を奪った相手」が想定されている。
何だってこんなことを申し上げたかと言えば、自由とは
自らに由がある
ものであることは明らかなのに
他に由がある
と見なしていることの奇妙さに気づく人は、あまり居ないからだ。
このことについては、既に幾度か申し上げている。
「自らに由がある状態にさせてくれない、他が居るからでしょう!」
と憤る人にとって、自由とは誰かが「くれる」ものとなる。
くれるかくれないかはその誰か次第となるなら、それもやはり、とても奇妙だ。
頂戴待ちで不自由を嘆く人々は、「自由にする」を「好きにする」と、ごっちゃにしている。
「好きにさせて、認めてくれ」
の包装紙をペロリとめくって中を見てみれば、入っているのは
「いいねと応援支援して、不安にならない様にその都度褒めてくれ」
だったりする。
自由にすると好きにするは、全く異なる。
自由にする時、己以外の自由も認めている必要がある。
そうでなければ一体何を根拠に、「自由」であることの正当性を主張出来るだろうか?
好きにする時、己以外が好きに出来なくとも関係がない。
だから誰かが好きにしようとする時、それ以外の人にとっては嫌なことを強いたり、拒否されてぶつかり合ったり出来る。
そうした動きをお構いなしに進めようとするなら、領土拡大を目論む侵略と同じだ。
自由である時、自罰的にも他罰的にもならない。
自由に必要なのは、他者の容認や従属ではなく、自らの柔軟性。
本道を行くことを意志し、中立に観察し、柔軟に実行体験し、それを愛と感謝で消化し、昇華する時。
どの様な環境にあっても。又、どの様な立場でも。その人は自由である。
自由は時も場も待たぬ。
(2025/4/21)