単に酒とせず、わざわざ前に御をつける所に、酒を配る相手の存在が示され、これが祝いや持て成しの酒であることが表れている。
御酒を配る様子だとして、配についての説明に配ると言う表現を使っている訳の分からなさは、とても人間らしいやり方と言える。
配の意味としては分けて渡す、配るの他に、「役目を与える」や「連れ添う」があると言う。
それぞれに注ぐ御酒と、それぞれが果たす役目の共通点。
それは申し上げるまでもなく、祝福。
祝福のない酒注ぎや辞令は世に溢れているが、配には程遠い。
だがそれも、目に見えぬ無から有へ日々、毎瞬行われている配の範疇を出ない行いなのだ。
人が行う配慮や支配、それら全て虚空の観ている物理次元に起きる、泡が弾ける程度のちっちゃな動き。
その中で、全体一つの流れに沿ったものは、伸び栄える方に向かう。
近視眼的な捉え方をしている人々は、流れに沿っていないものが肥大しているのを見つけて「どうして?」と感じることもあるかも知れない。
それも、引いて観てみると「ああ、この部分の肥大化が、あの制限が解ける切っ掛けになったのか」等、理由が分かって来たりする。
分からなくとも、それを気にすることもなくなる。
あちこちで、全体一つの流れが加速する変化が起きているのを観察する方に、意識が向くからである。
天の配剤とか世の人は言ったりするが、天は調薬をしたりしない。
するのは人だけ。 酒を薬と呼ぶのも人だけ。
地もしない。
当たり前に、虚空もしない。
特効薬の到来を待ち続ける姿勢に、意味はない。
全母たる虚空は、只、天意からの愛を、気を通じて実の世界へ送り続けている。
真の気を、配するものは、空なり。
このことを分かっていると、感謝と歓びが静かに満ちて来る。
満ちて歩む、祝福の道。
(2025/5/12)