《理想と現実?》
今の今、生きていることそのものの面白さに集中していると、特に必要なかったと分かるものが幾つもある。
その一つが「理想」である。
理想とは一体何だろうか。辞典には、idealの訳語だとしたうえで、
“哲学で、人間の理性と感情を十分に満足させる最も完全な状態。現実の状態の発展の究極として考えられた最高の形態。
実現可能な相対的な究極状態と、実現不可能だがそれでも行為を促す絶対的な状態(神、最高善、永遠)の二つに分かれる。”
と説明されている。
ここから分かることは、言われているのが
理性+感情の満足
に限定され、そこに御神体の充足は関わって来ないこと。
意識主導の見方で、意識が十分に満足すれば御神体にもその満足が行き渡ると言う発想によって、理想は追い求められて来たのだろう。
只そのやり方が、もしまともに機能するとしたら
意識が中立であり、全体性のある場合
の話ではないだろうか。
見方が偏った意識は感情の赴くままに、時には御神体にとって自然ではない状態も巻き起こす。
又、偏った見方で掲げて使いこなそうとしている理性と言うのも怪しいものだ。
もう一つ、理想についてこんな説明もあった。
“物や心の最も十全で最高の形態。
ふつう現実的具体的なものの対極ないし究極として,知性ないし感情の最高の形態とされる。
実現可能な相対的な理想と,到達不可能な絶対的な理想(神・永遠・最高善など)とに区別でき,後者は超越的・規制的なものであり真の理想といえる。”
「え?何だって?」
と読み返してみたが、やはり真の理想は到達不可能であると前提して話を進めている模様。
到達不可能なものを本尊として設置し、まあまあ到達可能なものを御前立みたいに置いて、そこに向かって到達しようと目指す?
「何がしたいんだ、一体」
と首を捻ったが、こう言う不可解なことを大真面目で行うのが不覚あるあるなので、今更そこについては長々申し上げない。
「人物」と表現する時にはそこに御神体も含まれているのだろうが、それは人物像などイメージ上の“輪郭”についてであって、理想に関する二つ目の説明でも、御神体の本質的な力が十全に発揮された状態の話はしていない。
御神体は現実に属している。
だから理想の話をする時には顧みられない。
と言うことだろうか。
「じゃ、あんた(意識)たちは今どこにいるのさ?」
と言う話である。
意識が御神体の力にフォーカスし、そこに対する理解を実感とともに深めて行く時、エイヤッと頑張らなくとも、理想の影響は自然に弱まり減って行く。
理想と現実。
分ける意味って、ありました?
(2025/6/9)