《独立の愛》
独立した状態で、この世界丸ごとに天意からの愛を向ける時、孤独になりようがない。
天意からの愛を周囲に放っていても、意識の中に寂しさが忍び込むならば、それは独立しきれていないからだと言える。
人間は不安や寂しさを嫌って、誰かと共に在ろうとすることがある。
だが、結婚したり出産したりペットを迎えたりと様々な方法で家族を増やしても、そこにはいずれも期限がある。
亀などなら別だが人との生活に向く大体の動物は数年から十数年で、
子の誕生から独り立ちなら二十年前後で、
配偶者とも離婚しなかったとして長くても数十年で、
現状では別離の場面がやって来る。
つまり、それは寂しさの解消ではなく、寂しさの先送りなのだ。
しかも賑やかだった分、孤独感の揺り返しは大きくなる。
こうした先行きを怖れることなく見通せる人間からは、
「結婚しないと寂しいぞ~」「お子さんに恵まれて安泰ですね」
とか言う科白は多分出て来ない。
ずっと賑やかにしておくルートも、全くない訳ではない。
何人も子を産み育て、その中の誰かと同居し、子らが結婚し孫を産み、賑やかな大家族を構成する。
大勢に囲まれた暮らしの中で、昼寝の最中か何かに眠るように息を引き取る。
只、この状態に辿り着くことを望んで、そしてそれを実現する人間は、この世にどれだけ居るだろうか。
ごく一部である上に、そうした人物にも本人より先に亡くなるメンバーについての喪失感は訪れる。
不覚社会に巻き起こっている、どんな賑やかも期間限定。
この事実に目を向けることの出来ない者に、突然訪れる家族の喪失と言うビッグウェーブ。
それは人間が感じる痛みの中で最も大きなものだと書かれた資料を、目にしたことがある。
その他の痛みもそうだが、どうやって数値化したのだろうか。
結果のグラフを見ただけなので、全く不思議である。
当たり前だが寂しがっちゃいかん、痛んじゃいかんと言うことは全くない。
在が不在に変わった時、名残惜しさと言う寂しさが滲むのも不覚ならではの風情と言える。
それも勿論、全母たる虚空がやってみたかったことの一つ。
わざわざ個別に分かれ、わざわざ意識を覚めない状態にして。
何もかもを生み成す観察者としての虚空は、「これは取っておきたいな」と惜しんだりはしない。
どれもこれも、変わることなく愛している。
そしてそれらを通して生まれる、新しい体験を愛している。
独り立ち、天意からの愛を放ち続ける時。
目に映るかたちとそこに宿るいのちがどの様に変化しても、訪れるのは喪った痛みではなく共に体験したことへの感謝となる。
変わり続ける面白さ。
変わることなき愛おしさ。
(2025/6/30)
6月のふろくはおやすみし、来月以降に追加でご用意致します。