《動も不動も》
崩れ壊れて、何処へ行く。
前回記事の終わりに、この様に書かせて頂いた。
勿論、虚空としては何処へも行かない。
何処へも行きようのない虚空が、移動して変化する感覚を楽しむ為に生み出したのがこの物理次元である。
お引っ越しと言う横の動きだったり、昇進や天下りなどの縦の動きだったり。
目に見える動きの他に、理解の深まりなど見えざる奥へと向かう動きもある。
しかも人型生命体と言う端末に分かれることで、集合したり分散したり、動きによっては衝突したりすることまで出来る。
新しいものを生み出し、新しい展開を観察することが虚空の求める所。
なので、分割意識達がそこに注力すれば衝突の機会は自然に、これまでよりも減って行く。
エゴの力を借りて、衝突大盛りだったのがこれまでの不覚社会である。
そこに使われているエネルギーは相当なものだが、虚空の後押しがないので余計に人力が割かれている。
疲れない訳がないのだ。
本道を行けば古い動きは放って置いても減って行くのに、理想や道徳を掲げて
「とにかく衝突はいけない!駄目だ!」
として、無理に動きを減らして、和している様に体裁だけ整えようと頑張ったりもする。
だから隅に追いやって溜まったエネルギーが暴発して、平和好きの人からすれば「嘆かわしい」事態が起きたりする。
未知なるモノコトの生まれるサポートをして、それを観察し、面白さを楽しむこと。
すると当たり前に、鏡で見たり触れたりして、これが自らであると認識している端末も日々、新しい存在になって行く。
あらゆる存在は空間と地続きである。
それを自覚し実感する時、分け隔てと言うのも一つの試みであると納得し、より深く世界を理解し始める様になる。