《不祝を観る》
この世を観察し、祝われぬままになっている存在を発見した時に、
「これ祝えないかな?」
と、一応確認してみているが、これは祝えないと言うものは、まるでない。
祝福は、支持とイコールにはならない。
賛同とも。
応援とも。
従属とも。
許容とも。
同情とも異なる。
だが、この世の祝われざるものについて、 人が祝福をしようとする時、実際には祝福ではなく、上に挙げた異なるものたちのブレンド状態になっていることが多い。
「○○にも理由があるんだよね」と同情する。
母なる虚空になり替わって、広い心で向きあう。
そして、祝われていない要素を許容する。
この様にして、自らを徳が高い状態に置いて、高みから見る時、それは当たり前に“上から目線”となる。
祝福するにあたり、欠かすことが出来ないのは、
「何もかも元は虚空から来ている、同源のもの」
であることを認めた意識状態。
全母たる虚空が、生ける虚空たる分神として、物理次元で自覚的に観察体験を行う。
物理次元全体にその状態が広まるまでには、人間的感覚で捉えると、祝うことが難しそうな役割も数多発生する。
何もかも、それはそれで一つの役割。
このことを理解していると、どれだけ荒れ狂う嵐の様な勢いで人々を驚かす出来事が起きても、
「成程、今の今はこう言う流れか」
と、静かに観察を続けることが出来る。
この観察を行った上で、 それでは「自ら」と認識している端末に必要な動きは、全体一つの流れで行くと何か。
これを感じて、理解し、実行する。
意識の中に不祝が残っていると、その分だけ流れは狭まり、揺らぐことになる。
上からでも下からでもなく、同として観る時、意識は常に中立となるのだ。
何処を観ても全の内。
(2025/3/13)