《めでたの日》
「お誕生日おめでとう」
先日こう申し上げる機会があったのだが、集まった人々に祝われる御本人から返って来たのは
「めでたくもあり、めでたくもなし」
の言葉だった。
祝福の日に祝福の言葉を送り、なぜ少し悲しげな笑いが返って来るのか。
続いて「一里塚…」とか何とか仰る。
どうも、めでたい日よりも冥土までの距離感が気になるご様子。
ふと、誕生日と言う機会そのものに対して
「やったーーー!!!」
と喜ぶ人って、少ないのかも知れないと気づいた。
ちいさな人が
「ワ―イ、今日はぼくのたんじょうびだ!」
とか喜ぶのも、その日に食べるものや貰うもの、人の集まりが楽しみだからじゃないだろうか。
生まれたこと自体については、あまりにも平凡に思えて
「生まれて生きてますが、それが何か?」
なんて感じになっているのかも知れない。
だが、世界と自分とを繋ぐ記憶がほわほわと表れ始める前、どんな人であっても
その人がまだ居ない状態の世界
はあったのだ。
存在してない世界から、している世界へ変わった。
これって凄いことじゃないだろうか。
誕生について意識を向けると、この出来事が物理次元ならではのものと分かる。
今の今こうして「自分」と見なしている端末が、物理次元に登場するあたりの世界はどんな感じだったか。
調べてみるのも面白いだろう。
誕生そのものを喜ぶこと。
生きていると感じられる状態を叶えている、御神体に感謝すること。
誕生日にはしてみると楽しいことが沢山ある。
同じ誕生日の人で集まったりなどするのだろうか。
連続する二日間が誕生日である人々が集合し、祝い祝われ、日付が変わったら祝われ祝いするのも面白いかも知れない。
生まれたこと。生きていること。その連続である人生を楽しんでいると、色んなアイディアが出て来る。
生まれた日もさして嬉しくないし、生きている状態も、まあ別に…みたいな状態で過ごすことも勿論自由。
只、人生の味わい深さが分からずじまいになるだけである。
実際、毎日めでたの日。
(2025/5/19)