《どんな場合も》

 

毎瞬生まれ来る新しい場面を観察していると、知ろうとしなくても様々なことに理解至り静か感心することがある。

 

何故、人と人が争うのかについて不思議はないし、

 

国と国が争うのかについても不思議はないし、

 

争いが果たす役割についても不思議はないし、

 

 

誰が誰と、仲良くしていても喧嘩していても、

 

「ああ、それがそれだな」

 

と、動きそのもの観察するばかり。

 

それに対して特に意見もない。

 

 

誰かにこう見られたいと言うこともなければ、こう見ないで欲しいと言うこともない。

 

誰かにこうして欲しいと思うこともなければ、こうして欲しくないと思うこともない。

 

そんな気楽さで日々過ごしていて感じるのは、

 

この世界はとても美しい

 

と言うこと。

 

「どこが?」となる方も、居られるだろうか。

 

「どこが?」ではなくとも「いつもじゃないけど、まぁ、たまに美しいこともあるよね」であるとか。

 

世界に対して理想に近いかどうか、整っているかどうかと意識条件を付けていれば中々、それが只それであるだけで美しいものには見えない

 

無条件美しさ観ていると、天と地があることがもう面白いし、美しい

 

 

街のあちこちに見られる木々や草花の植物達、人々が連れ歩く動物達、大小の様々な建物

 

だけでなく、どこからどこまでの括りなく目の前に展開される風景全て

 

ゴミがあるならそれも含めて、喧嘩があるならそれも含めて、この瞬間そこに在ることだけで美しい

 

そして一瞬後にはもう別の場面で、一瞬前に在ったものは既に跡形もなく変わり行くのも又、美しい

 

弥栄であることに感じていた時もあったが、それもまた一つの条件と気づいた

 

世界は常に、そして元から美しい。

 

虚空の美に、場合なし。

(2025/6/19)