《解ける拘り》
当たり前だと思っていたものが、そうではなかったと言う驚き。
これを楽しむには、人がそれぞれ意識の中に保存している「こうでなくっちゃ」と言う限定的な拘りを解除する必要がある。
経験したことのない出来事に遭遇して、意識が抵抗を感じる時。
そこには、意識の中に拘りが埋まっていないか確認する機会が訪れている。
何故抵抗を感じるのか。
変容の時代、こうした抵抗は大まかに分けて、二通りの場合に起こる。
一つは、これまでに築き上げて来た「こうでなくっちゃ」のルールに抵触する時。
もう一つは、それが自他問わず「御神体を蔑ろにするもの」である時。
前者であるなら、その拘りがどんな内容であるのか。
どの時期に生じた拘りであるのか。
その拘りがあることによって意識にとってどんな“旨味”があるのか。
もしくは単に習い性で繰り返しているだけなのか。
様々なことを観察出来る。
観察して、どんなものかが分かったとして、「こんな拘り駄目だ!」と無理無理引っぺがそうとすればそれは肥大するばかり。
「こんな拘り駄目だ」とする拘りを余計に作ると言う、冗談みたいな展開となる。
丁寧かつ中立に観察し、それが己の拘りでなく他の誰の拘りだったとしても変わることのない天意からの愛で観る時。
ややこしくこんがらがった内容も自然と消化され、昇華して虚空に還る。
解こうとせずとも解けて行く。
先ほど挙げたもう一つである「御神体を蔑ろにするもの」に対して抵抗を感じる時。
そうした感覚を抱く意識は、十分に健やかである。
御神体に愛と感謝を注ぐにはどう行動するか。
その一点に意識を向けていると、そうした抵抗を感じるものに遭遇しても自然と影響を受けなくなる。