《覚を描く?》
前もって思い描くのが好きな人々は、覚める瞬間の場面や、そこに至る道筋までも思い描こうとしたりする。
事細かに描き出そうと想像を膨らます人から、何とはなしにぼんやりとイメージするに留まる人まで実に様々。
だが、未だその身に起きて居ないことを、意識だけが先に味わおうとする点は同じである。
思い描くそのイメージに、覚とは関係がない内容が多く含まれているのは不思議なことだ。
イメージの材料となるのは、目を覚ましたと聞く人物から得た情報。
そこに加えて自分好みの味付けもしていたりする。
大ピンチからの大逆転とか。
覚めたことによって全てが上手く行き始める様子とか。
起こることに劇的要素があるとは限らないし、
覚めたら得するみたいな情報も、出所がよく分からない。
「全て一つで、損をしようも得をしようもないってことに気づいて腑に落とすことで、得したいんです」
と言っているのと同じで、こんな珍妙な話があるだろうか。
けれども「覚めさえすれば万事解決となり、その解決とは幸運や恩恵などの得が起き続けることである」と言う脚色を覚に対して加えている人も居る。
エゴがあるからこそ可能になった動きで、覚めそうで覚めない所を楽しんでいるのだろうから、それはそれで良くも悪くもない。
好きなだけ続けるのも又、一興である。
前もっての思い描きに沿って事が運ぶと覚に対して期待すること自体、とても奇妙だ。
宮司を名乗る“これ”も別に何かを前もって予想して、そこに向かって近付けて行って、こうなった訳ではない。
思い描いて作ろうとする意図は、寧ろ起こることを歪めて塞ぐ様な気がする。
虚空は新鮮な驚きを観察したい訳で、同時にビックリもしたいのだ。
だからわざわざ人型生命体のかたちに分化して、意識を眠らせて再び起きようとしている。
そこまでやっていてどうして「思った通りになったわゲーム」なんて、し尽くして既に退屈なものを続けるだろうか。
誰が為の予想か。
(2025/10/16)
次回更新は21日(火)になります。