覚めに行く?》

 

「自分」と言う基準に従って、人生を作り上げることを人類は繰り返して来た。

 

それは劣ることでもないし、不幸でもない

 

前回記事にて、この様に書かせて頂いた

 

覚めると、こうした繰り返しにのめり込むことは出来なくなる

 

 

こう書くと、何だか良いことの様に感じる方も居られるかも知れない。

 

それこそが正しいことだとも。

 

良いも、正しいも、人の作った評価である。

 

覚めた後その事実も、当たり前に明らかなものとして感じられる

 

 

覚めること。当たり前だがそれは、他に比べて優れることではないし、それこそが幸せと言う訳でもない

 

劣りもしないし、不幸でもない。

 

只、シンプル至福であるだけだ。

 

汲めども尽きぬ充足が、そこにあるだけ。

 

 

真っさらな自由がそこにあるだけ。

 

静かで、晴れやかだ。

 

至福誰にも誇る必要のないものである。

 

覚めること同じ不覚社会において何か有利に働いたり、それで優位に立ったりと言うこともない

 

覚めること憧れる必要何処にもないのだ。

 

 

宇宙の大人になることだと、繰り返し申し上げている通り、童の心を抱えたままで辿り着くことはない

 

憧れは、対象との間に距離を作る。

 

自らに対して憧れることってあるだろうか。

 

覚とは何処かへ行くことではない。

 

虚空へと意識が帰還することである。

 

中心に、距離なし。

(2026/3/23)