《覚めに行く?》
「自分」と言う基準に従って、人生を作り上げることを人類は繰り返して来た。
それは劣ることでもないし、不幸でもない。
前回記事にて、この様に書かせて頂いた。
覚めると、こうした繰り返しにのめり込むことは出来なくなる。
こう書くと、何だか良いことの様に感じる方も居られるかも知れない。
それこそが正しいことだとも。
良いも、正しいも、人の作った評価である。
覚めた後はその事実も、当たり前に明らかなものとして感じられる。
覚めること。当たり前だがそれは、他に比べて優れることではないし、それこそが幸せと言う訳でもない。
劣りもしないし、不幸でもない。
只、シンプルに至福であるだけだ。
汲めども尽きぬ充足が、そこにあるだけ。
真っさらな自由がそこにあるだけ。
静かで、晴れやかだ。
至福は誰にも誇る必要のないものである。
覚めることも同じ。不覚社会において何か有利に働いたり、それで優位に立ったりと言うこともない。
覚めることに憧れる必要は何処にもないのだ。
宇宙の大人になることだと、繰り返し申し上げている通り、童の心を抱えたままで辿り着くことはない。
憧れは、対象との間に距離を作る。
自らに対して憧れることってあるだろうか。
覚とは何処かへ行くことではない。
虚空へと意識が帰還することである。