《育から競へ?》
本日はスポーツの日。
数年前までは、体育の日と呼ばれていた。
「何で体育がスポーツになったんだっけ?」
理由を確認したら、日本体育協会が日本スポーツ協会となったことで、祝日の名称にも変化が及んだらしい。
「スポーツ」とすれば「体育」にはない種目も含むことが可能になる。
体育は授業として行われることから、受け身のものであると思われているらしい。
スポーツだと強いられてる感がなく、本人の選択で自発的に行う意味が生まれるから、と言うのも変更の理由になったようだ。
だが、御神体の自然な成長は人型生命体が活動する上で基本になるもの。
幼い頃は体を育むことを誰かに教わったとしても、それを自主的な動きに変化させて、体を育み続けることは可能だし必要だ。
スポーツに体を育むと言うメッセージは受け継がれているのだろうかと、語源を調べてみた。
sportは、ラテン語の「deportare」に由来し、
「de」(ある場所から)+「portare」(運ぶ)
この二つが組み合わさってできた言葉で、「憂いを持ち去る」や「荷を担わない、働かない」といった意味合いを持つのだそうだ。
働かないが、動きはする。
義務的な作業から離れて、気ままに行う「気晴らし、休養、遊び」をすることを指すと言う。
ラテン語から始まってあちこちに移動し、いつの間にやらsが入ったりdeが取れたりと形にも意味にも変化を起こしながら、この言葉は長い間、幅広く「気晴らし」を意味し続けていた。
その内容はチェスや、山登り、食事、女性を口説くことまで多岐に及ぶ。
山に登ったり栄養を摂ったりと結果として体を育みそうなものもあるが、気晴らしであれば、分割意識の欲求を叶えるのが第一と言うことは明らか。
気晴らしが更に、「競技」の意味に変わったのは、ルールと記録方法が確立されてからだそうだ。
競っちゃいかん訳ではなく、それも虚空がやってみたかったことの一つ。
只、体を育むことからは随分と離れた。
スポーツによる選手の故障は、2025では珍しくもない事態であることが、その事実を示している。
故障と言う表現も、元は機械に向けたもの。
女性は産む機械等の発言には大騒ぎになる不覚社会も、こと運動選手の話になると「故障」は勿論、「戦力外」「メンバー招集」「支配下」と言った単語も平気で使う。
この世に数多ある機械の中でも、武器や兵器に似た扱いをしている気がする。
人間同士が人間の定めたルールの下に戦う。
そしてその競い合いから、勝敗に分かれた結果が生まれた時、喜んだり落胆したりの興奮だけでなく、時には爽やかさを感じたりもする。
こうした動きは人間特有のものであり、とても興味深く観察している。
様々に変わる試み。
(2025/10/13)
