《満ちている点》
今ここではなく理想的ないつかをゴールに設定した「思い描き」。
受験生は志望校に合格した自分を思い描いて、結果を求める。
その為に学力をつけ、同時に内申点等の点数稼ぎもする。
行き先を難関と見なす程、点数稼ぎも熱心なものになる。
それは別に悪いことではない。
良いことでもないのと同じに。
勿論、駄目でもない訳で、受験など合格基準が明確なものに向けては努力の一種となる。
点数稼ぎが好きな人々は、受験が終わっても人生の様々な場面で転用をする。
婚活であったり、出世だったり。
欲しいものを得る時に、基準がないものに向かっても点数を稼ごうとするのだ。
だが、稼げているのか、稼げたにしてもそれによって何点が入っているのか、又、合計何点あれば欲しいものが手に入るのかは明確でない。
更には、もっとフワッとしたものにまでこのやり方を採用する人々も居る。
例えば、善行によって徳を積めば極楽に行けるとか。
来世での将来設計など、認定証が送られて来る訳でもないので、全く確かめようがない。
それでも徳でお得になりたい人々は、言い換えれば損をしたくない人々は、意識に善行スタイルがちょいちょい出て来て、そのやり方で点を稼ごうとする。
全体一つの流れに沿って自然に行動している人は、やったことが結果として善行と見なされることも少なくないが、本人はそれが善であるか悪であるか意識することはあまりないのじゃないだろうか。
宮司を名乗る“これ”も、したことを感謝されたりもするが、それが良いとか悪いとか特に気にならない。感謝されなくとも気にならない。
不覚社会に「良かれと思ってやったのに」等と言うフレーズが存在するのは、良かれでやって全然良くならなかったりもするからだ。
良いか悪いかとは結局、個々人がその場で感じて与える評価なのだ。だから基準はそれぞれの都合で変わる。
世の中には覚める為に点数稼ぎをしようとする人まで居るが、虚空から生じるいのちの点滅は常に満ちているので、元から満点である。
何もかも満点であったと気づく時、「良い点」も何も無くなるので、点数稼ぎが好きな人には、覚めることは魅力的でないかも知れない。
覚を稼ぐことは出来ぬ。
(2025/10/9)
