《欠く道具?》

 

人々がと言う表現使うのは何故か、分かっていることが幾つかある

 

五月病を取り上げた前回記事にて、この様に申し上げ、その終わりに「欠の為、使われる病」とも書かせて頂いた

 

学業や勤務について欠席をする時、通常は何かしらの断りを本人や保護者の側から入れる。

 

来ることが前提になっているので、そこに穴が開いて何の報せもなければ、席を管理する側は調べようとするだろう。

 

 

我が校の生徒や我が社の社員が、一体何処に行ったのか。

 

捜索の手間をかけることを防ぎ、再び出席する時に気まずくなったりしない様にと言う意味もあって、欠の理由は当事者から示される。

 

病欠はそうした欠の中で、種類にもよるが、かなり正当性を評価されるものじゃないだろうか。

 

「心身の不調が欠の理由なら、致し方ないと認めざるを得ない」

 

そんな常識が前提としてある。

 

「出席したいのはやまやまだが、病によってそれが叶わない」

 

としておくのと、

 

「どこにも不調はないが、他にしたいことがあるので出ない」

 

とするのと、

 

「どこにも不調はないが、今日は出席したくないので出ない」

 

 

と言うのでは、その後の展開は随分違って来るだろう。

 

場合によっては、「気分次第で来たり来なかったりする者には、席は用意しない」ともなりそうである。

 

五月病がを名乗っているのは、「欠席まで行かなくとも、そうなりかねない位の状態であること」を示す必要があるからだ。

 

「何となくブルー」「季節的にモヤモヤ」とかの表現では、深刻さが足らない。

 

欠に至る道筋をつけるのと同時に、社会で歓迎されない「怠け」とは異なると示す目的もある。

 

 

ここから浮かび上がるのは、一時停止もルート変更も気軽に出来ない、強固な義務を設定し合う社会の姿である。

 

実際にまで行くと、状態によっては日常生活を再び軌道に乗せるのに長くかかったりする。

 

人生における必要な契機として病が巡って来るのと異なり、心身に無理を強いるを強め、病む状態をちょい乗せして気まずさなしに休息しようとする姿勢は、全体一つの流れに沿っていない。

 

風潮が目に見えて変わるのを待つまでもなく、御神体和して歩む人程、変容の時代後押しを受け易くなるのだ。

 

病は道具にあらず。

 

(2026/5/21)