柔軟を固める?》

 

覚めぬままでも、柔軟性が育つことで御神体はより自由に、よりになって行く

 

分割意識が自他に課していた、様々な「ねばならぬ」が解けて行くからだ。

 

これは分割意識御神体のどちらも「やわらかく」なる場合。

 

御神体の伝えることを受け取らずに、一方的に使役して柔軟性叶えようとする時、奇妙な場所に意識が留まることがある。

 

「柔軟でなければならぬ」

 

この拘りで、意識制限がかかる。

 

やわらかくなりつつあるものを、かたく縛る動きであり、訳が分からない。

 

奇妙だが、意識は傾いたまま身体だけ柔軟にしようとして、それを優位性に転換することもあるのだ。

 

人に柔軟化を説きながら、ねばならぬを使う人々も世の中には居たりする。

 

 

御神体の可動域がどれほど拡大したとしても、意識の方が

 

「固いのはダメなこと」「この高みから一歩も下りずに伝える!」

 

と頑張っていたら、そこには当たり前に限界が来る。

 

とは言え、そこに御神体との交流起きれば分割意識の方も自然な状態に近づく

 

 

「あれっ?柔軟になることが偉いとか、別にないな」

 

と、気づく機会も、問いのある人には訪れるだろう。

 

御神体と共に分割意識やわらかくなる時、地の確かさ感謝できる。

 

地に限らず、地味で当たり前にそこにあるものへの感謝湧き上がる

 

 

人が人の形を成したまま、全体として生き、そこでどんな表現をして行くか。

 

既に物理次元のテーマは、この様に切り替わっている。

 

この時代の流れの中、人々がどう進むのか。

 

面白く興味深いことである。

 

機会を生むにも、問いが要る。

(2026/3/5)