《柔軟を固める?》
覚めぬままでも、柔軟性が育つことで御神体はより自由に、より楽になって行く。
分割意識が自他に課していた、様々な「ねばならぬ」が解けて行くからだ。
これは分割意識と御神体のどちらも「やわらかく」なる場合。
御神体の伝えることを受け取らずに、一方的に使役して柔軟性を叶えようとする時、奇妙な場所に意識が留まることがある。
「柔軟でなければならぬ」
この拘りで、意識に制限がかかる。
やわらかくなりつつあるものを、かたく縛る動きであり、訳が分からない。
奇妙だが、意識は傾いたまま身体だけ柔軟にしようとして、それを優位性に転換することもあるのだ。
人に柔軟化を説きながら、ねばならぬを使う人々も世の中には居たりする。
御神体の可動域がどれほど拡大したとしても、意識の方が
「固いのはダメなこと」「この高みから一歩も下りずに伝える!」
と頑張っていたら、そこには当たり前に限界が来る。
とは言え、そこに御神体との交流が起きれば、分割意識の方も自然な状態に近づく。
「あれっ?柔軟になることが偉いとか、別にないな」
と、気づく機会も、問いのある人には訪れるだろう。
御神体と共に分割意識もやわらかくなる時、地の確かさに感謝できる。
地に限らず、地味で当たり前にそこにあるものへの感謝が湧き上がる。
人が人の形を成したまま、全体として生き、そこでどんな表現をして行くか。
既に物理次元のテーマは、この様に切り替わっている。
この時代の流れの中、人々がどう進むのか。
面白く、興味深いことである。