《果と果て》
「そう言えば何でだろう?」
と、先日ふと気がついたことがある。
草木の実を収穫するだけでなく、人は様々な果実を求める。
結果とか、成果とか、果報とか。
奇妙なことではないだろうか。
栄える華としての時期が過ぎて、美味しい実をつけてそれが熟すのではなく、皴皴に朽ちる感じ。
果ての意味を調べると、「終わり。最後。しまい」とあった。
古語の「果て果て」であれば、「最後」だけでなく「いちばん終わり」や「とどのつまり」に置き換えられると言う。
終わりに一番や二番があると言うのも不思議なことだが、終わりや最後であるだけで、グッドやバッドの味付けがない。
どの辺りで、「果ての使い方は、こう」みたいなルールが定まったのだろうか。
それについては未だ不明だが、人が終わりに抵抗を感じる存在であることは何となく分かる。
と言っても、好ましい状態の終わりに限ってのことではあるが。
好ましくないものが終わる時は、「やっと結果が出た」みたいに言う。
終わりを嫌がる一方で、果てしなきものを嫌ったりもする。
それも人の奇妙さの一つで全く矛盾しているかの様だが、一点に於いて矛盾していない。
終わりも、果てしなさも、人の手に余る。
人は、と言うかエゴは、支配操作出来ないものを嫌うのだ。